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深読みCINEMAコラム【パンドラ映画館】vol.65

超ヘビー級なシリアス劇『プレシャス』”家族”という名の地獄から脱出せよ

precious01.jpg母親のDVに苦しむ16歳のプレシャス(ガボレイ・シディベ)は、
フリースクールの教師ミズ・レイン(ポーラ・パットン)から
生まれて初めて人間らしい扱いを受ける。
(c)PUSH PICTURES,LLC

 チャンスをください。一度だけでいいから、人生をリセットするチャンスをください。チャンスさえもらえれば、後は何とか自分でやりますから……。しかし、いくら願っても、サイテーのどん底生活を送っている人間には、そのチャンスさえ回ってこない。万が一、チャンスが訪れたとしても、サイテーの生活を送っている人間は、それが自分にとってのチャンスであることが認識できない。『プレシャス』のヒロイン、クレアリース・プレシャス・ジョーンズ(ガボレイ・シディベ)は、16歳でお先真っ暗な人生を歩んでいる。体重はヘルスメーターの目盛りを軽く越え、自分によく似た体型の母親(モニーク)から「デブでウスノロ、早く食事の用意をしろ!」とどつかれる毎日だ。落第を重ね、いまだ中学校に通うプレシャスに対し、母親は「学校なんか通っても意味がない。それよりも役所に行って、生活保護費をもらってこい」と怒鳴り散らす。実の父親はプレシャスをレイプした挙げ句に身籠らせて、家を出ていった。母親のDVはますます激しくなる。息が詰まる生活。でも、お腹はどんどん大きくなっていく。プレシャス(高貴)という名前は、彼女にとってあまりに残酷なジョークでしかない。

 1980年代のNY・ハーレムで生まれ育った黒人少女の葛藤を描いた『プレシャス』は、かつてない超ヘビー級のシリアスドラマだ。重い現実に潰されそうになるプレシャスに、ささやかなチャンスが訪れる。クモの糸のように、か細くて、すぐに切れてしまいそうだが、母親のDV地獄に悩むプレシャスにとっては、唯一の希望の光だ。妊娠していることが中学校にバレたプレシャスは退学させられるが、代替学校として「フリースクール」への入学を勧められる。教科書に何が書いてあるのかさっぱり分からないが、家の外に出られるのなら、どんなチャンスでも構わない。プレシャスは重い体を揺らしながら、クモの糸に手を伸ばす。

 自分が不幸なのは家族のせいだ、自分がダメなのは親の遺伝子のせいだと、責任転嫁する輩は少なくない。しかし、家族をののしり、自分の境遇を憐れんでいる人間は、血縁という名の狭苦しい牢獄に自分から進んで入っているようなもの。生まれた時代が悪かった、オレが悪いんじゃない社会が悪いんだと嘆く人間も同罪だ。自分で檻の中に入っておきながら、カギの開け方を覚えようとしない。自分の目の前にクモの糸が垂れていることにも気づかない。仮に気づいても、途中でクモの糸が切れるんじゃないかと尻込みしてしまう。

 プレシャスもこれまでは自分のことしか考えることができず、妄想の世界に逃げるしかなかった。しかし、生まれてくる子どものために、プレシャスはクモの糸を這い上がっていく決心をする。このままでは、自分のお腹の中にいる赤ちゃんは生まれてくる前からどん底の一生が決まっている。子どもには自分や母親のような目に遭わせたくない。アルファベットの読み書きも満足にできないプレシャスだったが、フリースクールの女性教師レイン(ポーラ・パットン)は熱心に、物事を学び自分で考えていく面白さをプレシャスに教えていく。受験勉強ではない、本当の意味での教育だ。プレシャスに初めて他人をリスペクトする気持ちが芽生える。

 また、フリースクールに集まる同年代の少女たちも、それぞれに事情を抱えていた。今まで自分のことしか考えなかったプレシャスの黒目に光が灯り、少しずつだが視界が広がっていく。自分ひとりでも重そうなプレシャスだが、生まれてくる赤ちゃんの重量が加わり、クモの糸をたぐる腕に不思議と力が入る。どれだけクモの糸を上がっただろうか。気が付けば、今までの自分はひどく狭い場所にいたことが分かってきた。

 プレシャス役に抜擢されたのは、まったくの演技未経験のガボレイ・シディベ、撮影時24歳。本作での体当たりの熱演が評判となり、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、人気女優サンドラ・ブロックや演技派メリル・ストリープ、ヘレン・ミレン、若手の期待株キャリー・マリガンらと堂々と肩を並べた。鬼母役を演じたモニークは、米国では大柄な女性のビューティコンテスト番組のホストを務めているコメディエンヌとして人気者だ。最悪な境遇から抜け出せない苛立ちを娘にぶつけることしかできない難役を演じ、アカデミー賞助演女優賞に輝いた。女教師ミズ・レインを演じたポーラ・パットンも好演している。若くて聡明な美人教師レインだが、実はレズビアンという設定であり、原作者サファイアの分身でもある。マイノリティーとして生きていく彼女は、十字架を背負う者の眼差しの強さを感じさせる。

precious02.jpg市役所に勤めるソーシャルワーカー役のマライア・
キャリー。これが”世界の歌姫”のすっぴん顔。

 キャスト陣で、もうひとつ話題がある。実際にハーレムで代替学校の教師を経験した詩人サファイアの原作小説に共鳴した人気アーティストのレニー・クラヴィッツが看護士役、マライア・キャリーがソーシャルワーカー役で出演している。人気スターにありがちな1シーンだけのカメオ出演ではなく、出口を見出せずにさまよい続ける現代の”プレシャス”たちに寄り添い、祝福するべく真摯な演技を見せている。とりわけ、マライア・キャリーはノーメイクで出演し、すっぴんの素顔をさらしている。マイノリティー出身ながら、スターの座を手に入れた両者にとっても、クモの糸を這い上がるプレシャスの生き方は他人事ではなかったのだろう。

 クモの糸をよじ上っても、その先で待っているのは夢で見たお花畑が咲き乱れるような天国とは限らない。さらにレベルの上がった新しい地獄かもしれないのだ。でも、そこが天国だろうが地獄だろうが、プレシャスには関係ない。そこはプレシャスが自分の手でつかみ取った新しい世界。生まれてきた赤ちゃんと共に生きるための聖地なのだ。たった一度だけ巡ってきたチャンスを見事にものにしたプレシャス。その名前の通り、彼女は輝き始めた。
(文=長野辰次)

precious03.jpg

●『プレシャス』
原作/サファイア 監督・脚本/リー・ダニエルズ 出演/ガボレイ・シディベ、モニーク、ポーラ・パットン、マライア・キャリー、シェリー・シェパード、レニー・クラヴィッツ 配給/ファントム・フィルム 4月24日より日比谷・TOHOシネマズシャンテ、渋谷シネマライズほか全国公開中
http://www.precious-movie.net/

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最終更新:2012/04/08 23:01
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