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波紋を広げる大津いじめ自殺事件……

なぜいじめはなくならない? 劇作家・別役実がひもとく、いじめ自殺の不条理な深層

 19世紀から20世紀初めにかけて書かれた近代劇は、「誰が」「どうして」「何をするか」を重視する。近代劇の代表作として知られるイプセンの『人形の家』を例に取れば、「主人公の女性であるノラが」「社会性に目覚め」「人間として独立していく」までを描き、あらすじもとても明確だ。しかし、1950年代から登場した不条理演劇では、登場人物や、その人物が持つ感情も、とても曖昧なものとなっている。人間は、はっきりと意識的に自らの行為を選び取っているわけではない。そのような視点から描かれた『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという誰だかわからない人物をただずっと待ち続けるという不明瞭なストーリーだ。

 「葬式ごっこ」の現場で、近代劇であれば「どうしてこんなことをするんだ」「誰がやったんだ」というセリフが発せられなければならない、と別役は語る。だが、自殺したSくんが発したのは「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と、状況を説明する言葉。それは、もしも劇中のセリフだったらば、あまりにも“下手”なセリフといえるだろう。あるいは遺書にしても同様だ。彼が語るのは、いじめのつらさではなく、彼をいじめていた人々に対する忠告である。別役は「追い詰められて死んでしまったという場合に感じられるはずの肉声のようなものが聞こえてこない」と疑問を呈する。

 では、いったいなぜSくんは、そのような言葉しか持っていなかったのだろうか?

 その原因を、別役は「個人」としての主体が独立しておらず、「関係性のなかの『孤』」という自我しか存在していないことに求める。主体的に行動する個人ではなく、対人関係の中でしか自分を認識できず、それゆえに関係性に従いながらでしか行動することができない「孤」。近代から現代へと以降する過程で、その変化は徐々に起こっていった。とくにネットが浸透し、SNSをはじめ匿名の空間に関係性だけが肥大化していく現在において、「関係性の中の『孤』」という認識はもはや当たり前のものとなっているだろう。

 「関係性のなかの『孤』」だから、Sくんの「主体的な」肉声が聞こえてくることはないし、葬式ごっこに直面しても憤ることはない。現在の言葉で言い換えるならば「空気を読んで」その状況を説明する言葉しか発することができなかった。もしかしたら、加害者側も、自分が行っている行為が「暴行」や「恐喝」といった、「主体的な行動」であるとは思っていないかもしれない。このいじめの関係性から抜け出すために、Sくんという孤は自殺という方法を選んだ。

 劇作家である別役は、中野富士見中学の事件を指して「ドラマがない」という。それは、『ゴドーを待ちながら』の登場人物が、受動的に待つだけで、徹底的に「ドラマがない」ことと共通している。

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