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台湾の無名校が夏の甲子園で決勝進出していた!? 感動秘話『KANO ~1931海の向こうの甲子園~』

kano_int02.jpg台湾きってのヒットメーカー、ウェイ・ダーション。『セデック・バレ』は製作費20億円、『KANO』は同7億円と従来の台湾映画のイメージを大きく変えた。

──近藤監督は教育者、八田輿一は水利技術者として、台湾の人たちが驚くほどの情熱をそれぞれの分野で注いだわけですが、日本から来た彼らをそこまで熱く突き動かしていたのは一体何だったと思いますか?

マー その質問の答えとして、永瀬正敏さんの話をさせてください。永瀬さんは俳優だけでなく、スチールカメラマンとしても素晴しい才能を持っています。台北と高雄では、永瀬さんの写真展が開かれました。台北での写真展は無事に成功したのですが、高雄での写真展のオープニングイベントに永瀬さんはなぜか遅刻して現われ、イベント中ずっと永瀬さんは「すいません、すいません」と頭を下げていました。「どうしたんだろう? 日本人は時間に正確な民族なのに、珍しいな」と僕はそのときそう思ったんです。でも、後から永瀬さんが遅れた理由を知って、自分の考え方を改めました。実は2014年に高雄では大きなガス爆発事故があったんです。『KANO』の甲子園のシーンは高雄で2カ月間にわたって撮影したもので、永瀬さんは高雄という街に対して単なるロケで訪れた俳優以上の感情を抱くようになっていました。それで永瀬さんは高雄に来て、まず事故現場で黙祷を捧げたんです。写真展に遅れたのはそのためでした。何かしら事件が起きると、つい血縁関係だとか民族絡みのものとして捉えがちですが、そのように色眼鏡で物事を捉えると逆に大事なことを見逃してしまうのではないでしょうか。永瀬さんは『KANO』の撮影を通して近藤監督に成り切って、なかば台湾人として台湾のことを愛していたのだと思うんです。近藤監督や八田輿一が台湾になぜ移り住んだのか正確な理由は分かりません。でも、彼らが台湾のことを深く愛していたのは確かです。有名か無名かに関係なく、当時の台湾にはこんな日本人たちもいたんだという事実を『KANO』では描きたかったんです。

ウェイ 八田輿一もかつては台湾でも忘れられていた時期がありました。“台湾民主化の父”李登輝は日本に留学経験があり、また農学者でもあったことから、「八田輿一のことを台湾の人間はちゃんと知っておかなくてはいけない」と再評価を進めたんです。重要なのは、八田輿一も近藤兵太郎も軍人でなければ、日本政府から派遣された統治者でもなかったということ。2人ともただの民間人だったわけです。一般の民間人が家族を連れて台湾に移り住み、そこで暮らしていくには、その土地への愛情がなければ続かなかったはず。近藤兵太郎も八田輿一も他の台湾人と同じように、その土地に根を張って暮らしていたということが大きかったんじゃないでしょうか。

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