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「シネフィルである事」が、またOKになりつつある 菊地成孔が“ニュー・シネフィル”映画『ハッピーアワー』を分析

リアルの問題、まだ継続中

 テーマとしては、とにかく「リアルとはなにか」しかないと思う。そのぐらい今の日本人というのは、リアルを喪失しているから。インターネットによって、もうリアルがなくなっちゃってきている。そんなリアルのない世で歌舞いてみせましょうというのが、三池監督とか園子温監督で、これはこれで時代に合致していたわけで、リアルはミッシングもしくはコンフリクトしていたけど、萌えという感覚に関してはストレートにリアルだという人々に対して、ものすごい救世主になった。

 だけど、この映画は「萌え」がなく、「萌えという最後の命綱も切っちゃったら、死んじゃうの?」というかなり切実なテーマを日本人に突き付けている。これは日本だけではないけど、程度ややりかたはいろいろあれど、リアルをフレッシュに奪還しましょう、ということがテーマになり得る国が今、世界に沢山ある。というか、リアルが生き生きとリアルなのは、紛争国とか内戦国とかに集中している。

 ただ、さっきも言った通り、『痛快!ビッグダディ』が、最初はリアルだったのに、最後の方は演技だったとかいう話を代表に、、、、、してはいけないか(笑)。とにかく、「素人をドキュメントすれば自動的に得られるリアル」は、脆弱すぎる。

 ドキュメンタリーは必ず「やらせ」の問題と背中合わせになってしまうのは、もう力学的にしようがない。もう単なるドキュメンタリーがリアルだとも思えなくなっちゃった。

 盤石で揺るぎないリアルを撮るにはどうしたら良いか?残る手段は「ドキュメンタリーのカメラ」が「劇映画を撮る」しかないわけで、そんな、チェスの手の内みたいな、理詰めで考えた方法が生き生きとした映画表現に成るのか?と一瞬思う訳だけど、『ハッピーアワー』では、それが驚くべき完成度で結晶化している。

<第三のリアル>という考え方

 これは、一種のバイスキルで、カメラはドキュメンタリーの振る舞いも出来ると同士に、劇映画も撮れるし、両者を止揚した、第三の状態で振る舞えないといけない。役者は、単に出たがりの素人や、役者志望ではいけない。カメラ同様、第三の演技スキルとプランを持たなくては行けない。

 何度も言うけれども、これは画面から読み取った推測だけれども、「監督は、素人に台詞を与え、それを撮影する」という事に特化したワークショップをかなり実戦的に行ったと思われます。

 それがどんなものなのか、想像もつかないが、例えば会話のシーンがあって、この作品では、目線と目線を「リアル以上に」見つめ合う様に演出しているんだけど(ここはブレッソン的でも小津的でもあり)、これはおそらく、第三撮影と再三演技の賜物だと思う(例えば、実際に見つめ合わさせずに、喋らせて、それを横から撮ると、リアルな見つめ合い以上の、新しいリアルな見つめ合いが生まれる。というような)。こうした研鑽の結果が、4時間越えという長尺の中に、ぎっちり張り巡らされている。

フェミニズムとシスターフッドとレズビアニズム。絡み合う三者

 ただ、ちょっと、「そこはどうかな?」と思ったところもあって、この映画は「30代後半の女性はすごく生きるのが辛い」という事実の一側面を、単に本作のテーマであることを超えた、何か社会的なデフォルトのように扱ってしまっている側面が感じられ、つまり、コンセンサスをがっつりとった一般論として、精査せずにテーマに据えてしまっている様に思う。この点は第三リアル、新リアルというより、凡庸なマスメディア・リアルのように見えてしまう。

 「30代後半の女性で、いま暮らしも精神も全然問題ないんですけど、何か?」という人が出てこない。全員問題抱えているわけで、全員が辛い。その辛さというのは、正に、第一リアルに押しつぶされそうなわけで、かといってこの人たちは、アンリアルになってアイドルを追いかけたり、ネットにはまり込んで、二次元の世界によってリアルのきつさから逃れるということもしない人たちなんですよ。ここは、評価が分かれる所だと思います。

 つまりオタク型、ジャパンクール的な救済が全くないから、結構無慈悲というかね。だから相当フェミニスティックな映画でもあるし、マッチョな映画でもあります。男が女に芝居させて、操っているわけだから。マッチョ感もあるし、フェミニズム感もあるという。

 フェミニズムを理解している男性監督が女性をうまく使っているという意味において、『Keiko』とちょっと似てなくもない。完全100%フェミニズムにしようと思ったら、監督も女性であるべきだと思う、こんな長文で今初めて書くけど、監督は男です(笑)。しかも劇中に登場して、いいところさらっていったりしているし、そもそも30代後半の女性はみんな生きづらいという初期設定でスタートしてしまうこと自体が、ちょっとフェミニズムじゃないなという気がする。ここは、シスターフッドの同調には同じ境遇が必要という事だろうけれども、別に脚本に書き込まなくとも、そうじゃないと思えば、画面に現れる事です。

 あとは、マルセル・プルースト的とも、アンディ・ウォーホール的とも言える、時間の遅延(異様な長尺)、しかも長尺による冗長さが第一リアルに含有されてしまっては意味がなく、この作品は長さを殆ど感じさせない。不思議な時間構成をしている。筒井康隆や、ラテンアメリカ文学の「虚構」についての考察を、根本から行っている様にも、第三カメラと第三演技を獲得した事で、自然とそう成った様にも見える。

「カルチャーセンターのワークショップ」という、凄まじいリアル

 普通だったらカットしてもいい、第一部の「重心をとる」ワークショップを、ノーカットというか、ほぼそのまま入れ込んでいて、要するに、地方都市のカルチャースクールなんかで盛んなワークショップを、結構な尺で、ほとんど全部見せている。彼女たちが、いかにもありそうなカルチャースクールというか、ワークショップに友達と一緒に出掛けることで、しかもそれは体を使うことだから、肉体的な、身体的なリアルを取り戻せる。この中でヨガ習っている人とか、ダンス習っている人1人もいないように描かれる。ヨガだ、ダンスだ、ジョグだとなるというのは、やっぱり身体性を取り戻して、第一リアルということを体から取り戻そうという動きだと思うんだけど、それがヨガとかダンスにせずに、何かアーティストのやるワークショップ(新興宗教やメンタリズムのような擬似超能力ぎりぎりの)にしたというところが素晴らしい。

 ある意味、アンリアルというかね。普通これだけ集めたら、デブだったりチビだったりがいる筈なんだけど、意外と全員の身体的なIDがそろっている。体つきがみんな似ているんだよね。主人公達は境遇もルックスも4者4様なんだけれども、からだつきが似ている。ここが何だか凄い。凄いとしか言い用が無い。

 そして、似ているからこそだと思うんだけど、やっぱりよく見ると、1人1人の体つきが違っていて、その恐らく、1人1人が記号的には同じところに分類されるような体つきの人達の、細かい違いを見せたいというか、そこがリアルになってくるというか。

 結構、全編に渡ってその細いところを見せていくので、劇映画の目線で見ちゃうと、当たり前ですけど退屈な側面も出ちゃうんだよね。その分、彼女たちはよくしゃべる。そこは演劇にちょっと近い。

 韓国や合衆国の映画を観てから日本映画を観ると、「日本人ってこんなに気の利いたこと当意即妙にしゃべるかね?」とか思いますよね? 「あなたが好きです」というのに「月が綺麗ですね」というとか、曖昧な笑顔で何時間も居られるとか、あれって本当に日本人だけだよねと思う。

 しかし、ここではみんな、すごくいい台詞を言うの。みんな常に人生のことを考えていて、金言の5個か6個持っていて、ちょっとした会話の中でボンボン出てくるわけ。たとえばこの人の離婚したいと思っている亭主が出てくると、もうすごい人生訓とか飛び交って、そこは演劇に近い。日本人のリアルな会話をそのまま切り取ったら、良い台詞は出て来ないし、何せそれこそ、第一的な冗長に成って、4時間もそれやったら絶対誰もが寝る(『Keiko』はそうだった)。

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