奇習! 継父による性的虐待推奨制度「二婦貰い」 ― 終戦直後の寡婦対策、“母娘どんぶり”の実態とは?(山梨県)
「後家さんの年齢は様々だけれども、昔は今よりも子どもが多かったから、どの家にも必ずひとりやふたりくらいは、女の子がいたものでしてね。要はそういう子らをダシに使って、助平な男たちを集めようっていう腹でした。今にして思えば酷い話かもわかりませんけどね、当時はみんな生きるので精一杯でしたから。そのためには田んぼや畑だって耕さなくちゃならない。当の後家さんたちからすりゃあ、無念だったでしょうけども、迷っている暇なんてあったもんじゃなかったんでしょうね」
男というのは心底救いようがないもので、山奥の田畑しか持たぬ寡婦相手には、再婚希望の手を挙げなかったものの、それがその家に暮らす娘と「セット」ともなれば話は別。邪な欲求に突き動かされた男たちによって、相次いでこの集落の再婚話はまとまり、終戦の翌年の夏頃までには、ほぼ全世帯が再婚した状態となっていたのだという。
「そりゃあね、“そういう目的”で集まってきた男たちだから、女の子が多い家の方が引く手がありましたよ。ひとりよりふたり、ふたりより3人っていう具合にね。けども、そういう継父のね、なぐさみものになるのがよほど耐えられなかったのか、中学を出る頃には、そういう子らはみんな都会へ出ていきましたよ」
無論、現代の常識で考えれば、この「二婦貰い」の制度は、年端もいかぬ娘たちが犠牲になったことを思うと、胸の痛む話でしかない。しかもそれは彼女たちを生んだ母親、すなわち、夫に先立たれた寡婦たちにとっても、大きな痛みを伴うものであったはずだ。しかし、そうした苦渋の選択をせねばいられなかったほどに、生活が困窮していたこともまた事実。いつの世も、戦争における犠牲者というのは、兵士として戦場で命を落とす者だけではないのである。
(取材/文=戸叶和男)
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