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ルッキズムのない社会ってどんなもの? 日向市のサーファー動画とテッド・チャン「顔の美醜について」

 「海、似合うようになってきたね」。肥満気味の男性が、失恋をきっかけに始めたサーフィンを通じて精神的に――そして痩身になることで、身体的に――「健康」になっていく。そんな一見穏当で健やかなビフォーアフター物語を軸にした宮崎県日向市のPR動画「Net surfer becomes Real surfer」が議論を呼んだのは、この動画の物語が(あるいはそれを観るあり方が)ルッキズムを動員しているのではないか、という点だ。

ルッキズムってなに?――日向市PR動画と「放っておいてください」

 ルッキズムとは「外見に基づく差別・偏見」という意味で、レイシズム(人種差別)やセクシズム(性差別)から派生する形で70年代末から使われ始めた、比較的新しい言葉だ(オックスフォード英語辞典より)。レイシズムやセクシズムがそうであるように、ルッキズムは単に心理的な差別に留まらず、実際に社会的な効果を伴う。分かりやすい例は就職活動などで見られる「顔採用」だろう。

 そして顔採用の例が示すように、ルッキズムは誰に・いつ・どのように・どの程度割り振られるかという点において――それこそ「男は度胸、女は愛嬌」という言葉が示すように――セクシズムと密接なつながりを持っている。さらに言えば、どういった外見が望ましいとされるか(色白・痩身・若年etc…)を考えると、ルッキズムはレイシズム・エイジズム(年齢差別)・エイブルボディイズム(障害差別)などの他のさまざまな差別とも密に結びついていると言えるだろう。

 冒頭の動画がルッキズムを動員しているかどうかで問題になるのは、「肥満気味の男性がサーフィンを通じて痩身になる」というプロットそのものではおそらくない。ポイントは、サーフィンの喜びや自己実現が「美しい身体の獲得」という物語に集約されてしまってやいないか、という点だ。動画やそれを観る人の重点がどこに置かれているか、と言い換えてもいい。

 私見では、動画そのものはこうした問題について比較的繊細なバランスを保っているように思われる。「海、似合わないね」「似合うようになってきたね」というセリフに対して主人公の男性が一貫して「放っておいてください」と返すことで、動画はルッキズムをある程度中和しているからだ。けれど、動画を単なるビフォーアフター物語として称賛する消費のあり方の中では、こうしたニュアンスが失われてしまい、肥満より痩身の方が心身ともに健康で望ましい、というルッキズムの単純な再生産に終わってしまう。そして残念なことに、多くの視聴者において、「放っておいてください」という声は無視されてしまっているように思えるのだ。

 このようにルッキズムはわたしたちの社会に深く根を張り、誰もそこから逃れることはできないように思われる。じゃあ、ルッキズムのない社会ってどんなものなのだろう?

改ページ

ルッキズムのないユートピア?――テッド・チャン「顔の美醜について」

ここ数十年で、人種差別や性差別に関する議論は活発になりましたが、容貌差別についてはまだ遠慮があるようです。
……(略)……
教育によってこの問題への認識を高めることはとても重要ですが、それだけでは十分ではありません。テクノロジーがひと役買うのはそこです。美醜失認処置(カリーアグノシア)とは、一種の補助された成熟であると考えてください。この処置は、あなたがそうすべきだと頭で理解していることを実行させてくれます。つまり、より深くをながめるために、表面を無視することを。

 残念なことに、かどうかはともかくとして、「カリー」は実在する技術ではなく、SF短編「顔の美醜について」(原題は「Liking What You See: A Documentary」)に登場する架空のテクノロジーだ。作者は今年日本でも公開された映画『メッセージ』の原作者であるテッド・チャン。「顔の美醜について」は『メッセージ』原作と共に、『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫、2003年)に収録されている。

 物語の主人公はタメラ・ライアンズという大学一年生。幼少期に「カリー」を受けた彼女は18歳になったらこれを外すつもりでいたものの、大学の学生会議では「カリー」を同学学生の必要条件にしようという動きが盛り上がっている。

美醜失認処置(カリーアグノシア)を受けた人間は、人びとの顔を完全に認識することができる。とがったあごと後退したあご、まっすぐな鼻と曲がった鼻、なめらかな肌と吹き出物のある肌の差異を見わけることができる。ただ、それらの差異について、なんの審美的反応も経験しないだけである。
……(略)……
この処置を受けた人びとは、けっして流行や美の文化的標準に盲目ではない。黒の口紅が大ブームである場合、美醜失認処置がそれを忘れさせるわけではなく、ただ、黒の口紅をつけた美しい顔と不器量な顔の見わけがつかないだけである。

 タメラは「カリー」を受けていない友人からの疎外感に悩み、「カリー」を外すことを決意する。鏡を見た彼女は自分が美人であることを知り、人生への自信や他の美しい顔を見る喜びに燃える。未練のある元カレが不器量であることを知った彼女は、愛を取り戻すために、彼も「カリー」を外すようにと説得する。一方、彼女の通う大学では反「カリー」運動が盛り上がりを見せていた。けれど全米の大学を巻き込んだこの反「カリー」運動は、実は化粧品業界や広告代理店の隠れみのだった……。

 「顔の美醜について」は、「ルッキズムのない(技術によって取り除かれた)社会はどういうものなのだろう?」という一種の思考実験だ。物語はタメラの視点だけでなく、「カリー」賛成派・反対派の学生、宗教学教授、ニュースキャスターといった多様な視点から語られ、ルッキズムが悪であることは前提としつつも「カリー」が望ましいものなのかどうかについて最終的な判断を示さない、非常に繊細な立ち位置を守っている。

(余談だけど、私が教えた大学の授業でこの小説の抜粋を読み、「カリー」を支持するか否かタメラと同年代の学生にレポートを書いてもらったところ、賛成・反対はほぼ半々だった)

 多くの優れたSF作品がそうであるように、「顔の美醜について」のキモはむしろその優れた問題提起にある。私たちが誰かを美しいと思うとき、その判断の基準は本当に私たちに由来するものだろうか? 外見の美を鑑賞することが適切である場とそうでない場はどのようにわけられる(べき)だろう? ルッキズムのプレッシャーはどのように男女に割り振られているだろう? テクノロジーによって人間の道徳性を高い方向に変化させること(道徳的エンハンスメント)は許されるのだろうか? ルッキズムは私たちの社会でいつ・どのように動員されているだろう? そして最後に、誰かを美しいと思うこととその人を愛することはどういう関係にあるのだろう?

 「顔の美醜について」はこれらの問いを私たち一人ひとりが考えるように問いかける。外見によって差別されることがない社会が善であるのは当然として、「カリー」の強制された社会は手放しで称賛されるべきユートピアではおそらくない。ではルッキズムを解消したユートピアへ向けて、私たちの社会はどのような道をたどることができるだろうか? あるいは、そうしたユートピアにはどのような障壁があるだろう?

 冒頭のPR動画を例にとれば、カギになるのは「健康」という概念だ。件の動画をルッキズムとは関係のない穏当な成長物語として称賛するときに動員されるのは、あれは「醜い身体から美しい身体へ」という物語ではなく「不健康な身体から健康な身体へ」という物語だ、というレトリックだ。だけど、この「健康な身体」というイメージこそ、ルッキズムを支え続けてきたイデオロギーじゃなかっただろうか。ナチスドイツの優生政策から美容製品の中づり広告まで、ルッキズムはほとんど常に「美しさ」ではなく「健康」に関わるものだとして自己正当化を図ってきた。けれどそこで含意されている「健康」とはどういったものなのか(誰のための?どのような身体?)、ルッキズムについて考え始めた私たちは問い直してみることができる。

 「顔の美醜について」は2018年以降放送開始を目指して現在テレビドラマ化の企画が進行している。
(Lisbon22)

最終更新:2017/09/04 07:15
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