この際、清水富美加のことは置いておいて映画『暗黒女子』について語ってみよう
女子高生作家、高岡志夜を演じたのは清野菜名。彼女もモデルとしての活動が長かったが、アクションもこなせる女優として注目度も高い。今回も年上の男性との関係を匂わせるシーンがあったが、その微妙なニュアンスをうまく演じていた。
最後は、ブルガリアからの留学生ディアナ・デチェヴァ役、玉城ティナ。ハーフならではのエキゾチックな顔立ちが美しい玉城。個性的という面では、ピカイチだろう。今年は『PとJK』『サクラダリセット』と、話題作に立て続けに出演しており、今後の活躍が期待される。
そんな魅力的なメンバーが揃った、この映画。前半はとにかく「女子校」という汚れなき世界の美しさを描いていく。緊張の糸がピンと張りつめていくようなイメージだ。そこに「死」「殺人」という要素が入ってくる。
しかし、その死にはどこか現実味がない。まるでおとぎの国でおきている一つの儀式のように、淡々と殺人の物語が語られる。それがこの作品のキモでもある。
そして、後半、予告編にもある「驚愕のラスト24分」は、どんでん返しによって物語の真実が明かされていく。この作品の原作は「イヤミス」と呼ばれ、「読んだ後にイヤな気持ちになるミステリー」とのことであった。
確かに、ストーリーや最後のオチは嫌な気持ちになる人もいるかもしれない。しかし、映画でこれを体験すると、最後は、張り詰めた緊張の糸が一気に解けていき、ひとつの真実に向かって物語が収束していく。驚きや恐怖といった感情が一気に押し寄せてくるようで、それはある種「快感」でもあった。
これがいわゆる「クセになる」というやつかもしれない。
女子校という非現実的な世界と、死という現実的な事象。それが物語を通してつながっていく。
要はバランスなのである。
我々は本能的に知っている。光にあふれた眩しい世界。しかし、その裏には必ずやその世界を支えている闇となる事実があるであろうことを。
映画では、「文芸サークルのメンバーが書いた小説」という前提で、その闇の部分が少しずつ語られていく。光の世界と闇の世界が、そのバランスを保ったまま逆転したとき、この映画の真の意味が見えてくる。
春休みということもあり、劇場には若い女性の姿が多く見られた。
教師役で出演している千葉雄大の人気もあるだろうが、キャストの多くがモデル経験があり、女の子から見ても憧れの対象であること。そして、もともと女の子はミステリーが好きということもあるのではないだろうか。
もちろん、私のような若手女優好きには、絶対に見逃せない作品だ。何年か後、ここに出演していた女の子たちが、日本の映画界で重要な役割を担う日が来るように思う。
そしてそのとき、この作品がある意味伝説として語られるような気がしてならないのだ。
(文=プレヤード)
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