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世紀末の悪女? 自己実現のため戦うヒロイン? ゲイのアイコン?~オスカー・ワイルドの『サロメ』

他の男はみんないやらしい。でもあなたは美しかった!(オスカー・ワイルド『サロメ』1028–1029行)

 上の引用はオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』のヒロインの台詞です。聖書を元にしたこの作品は、若きユダヤの王女サロメの激しくも残酷な恋を描くものです。サロメがヴェールを脱いで裸になる「7つのヴェールの踊り」があまりにも有名ですが、実はこのお芝居は人によってほとんど解釈が正反対になり、フェミニスト的なのか性差別的なのかについてずいぶん議論が行われている、なかなか難しい作品です。今回の連載ではこの『サロメ』について書きたいと思います。

※この記事の『サロメ』からの引用は全てOscar Wilde, The Importance of Being Earnest and Other Plays, ed. by Peter Raby (Oxford University Press, 1998)に収録されているSalomeの拙訳です。

全裸目当てで見ると悩んでしまう、難しい芝居

 『サロメ』は1891年にまずフランス語で書かれ、1894年に英語で出版されました。

 舞台はユダヤの太守ヘロデの宮廷で行われる宴の一夜です。サロメはもともとヘロデのきょうだいとその妻ヘロディアスの娘ですが、ヘロデがヘロディアスと略奪婚したため、今ではヘロデの義理の娘になっています。

 若く美しいサロメは宮廷にとらわれている預言者ヨカナーンに一目惚れしますが、ヨカナーンは神の言葉に夢中でサロメのことなんか鼻も引っかけません。ふられたサロメは、絶対にヨカナーンの唇にキスすると誓います。そんなサロメのところに、ヘロデから宴席で踊ればなんでも望みのものをとらせるという申し出があります。サロメはダンスと引き換えにヨカナーンの首を要求し、運ばれてきた生首にキスして誓いを果たします。それを見たヘロデはサロメを殺させます。

 『サロメ』というと7つのヴェールの踊り……ということで、1枚ずつヴェールを脱いで全裸になる場面ばかりが注目されるのですが、実は肝心のダンスについてのト書きは「サロメが7つのヴェールの踊りを踊る」(831行)という単純なもので、別に服を脱げとか全裸になれという指定はありません。アクロバットとかベリーダンスが想定されていたのではないかなどとも言われていますが、はっきりしたことはわかりません(Bentley, p. 31)。言ってみれば演出家や振付家に任されているわけで、自由度が高いとも言えます。

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見る人の数だけあるサロメ像

 しかしながらこのお芝居は短いわりには複雑で、全裸目当てで見ると悩んでしまうようなところがあります。以前この連載でとりあげたクレオパトラも観客によって見方が変わる女性像でしたが、サロメもイギリス・アイルランド演劇史上もっとも多様な解釈が可能なヒロインのひとりです。世紀末の女性嫌悪的ファンタジーに満ちた悪女と考える分析もあれば、家父長制に対して反逆する「新しい女」と見なす批評家もおり、さらにこの作品は同性愛に関する戯曲だと考える人もいます。おそらくどの解釈で上演するのも可能です。

 19世紀末の芸術では、男を破滅させる魅力的なファム・ファタルが大流行していました。ファム・ファタルはマゾヒスティックな性的ファンタジーを満足させるキャラクターですが、一方で男性の女性に対する恐怖と嫌悪を体現する女性像でもあります。『倒錯の偶像』で世紀末のミソジニーを舌鋒鋭く批判したブラム・ダイクストラは、ワイルドのサロメは「愚かな背信と飽くことのない肉体的欲求」(p. 610)に突き動かされた「激しくあくどい反女性的象徴主義」(p. 614)の結晶であり、世紀転換期の凶悪な女性嫌悪の最たる例だと論じています。このような読みに従う場合、『サロメ』はヒロインが偉大な預言者を破滅させた後、ヘロデに殺されることで家父長制的な秩序が回復される非常に性差別的な芝居ということになります。

 一方、サロメをフェミニスト的なヒロインととらえる見方は、この正反対といってもいいものです。たとえばジェーン・マーカスは、サロメを世紀末に社会の決まりに反逆したいわゆる「新しい女」(ニュー・ウーマン)だと考えました。つまり、サロメは主体的な性的欲望をもって家父長制に刃向かい、ダンスという男性に強いられた見世物を精一杯自己表現に変えようとするフェミニスト的なヒロインだということです。

 また同性愛者として弾圧を受けることになったオスカー・ワイルドの一種の分身だという解釈も根強く存在します。私はあまりにも著者の個人的な背景に作品を引きつける批評は良くないと思っているのですが、『サロメ』についてはどうしてもワイルド自身の人生や美学を考えざるを得ないところがあります。ワイルドはのちに『獄中記』で、自分は「芸術において最も客観的な形式として知られている演劇を個人的な表現の方法にした」(p. 95)と述べていますが、『サロメ』はワイルドの最も個人的な戯曲で、ヒロインには著者本人のセクシュアリティが投影されていると考えられています(ショーウォーター、p. 270; ミレット, p. 278)。

 今年の夏にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演した『サロメ』は、まさにこうしたワイルドのセクシュアリティと作品を結びつけるもので、イギリスで男性同性愛が合法化された50周年記念の演目として作られ、サロメはある種のゲイ・アイコンになりました。ヒロインを演じるのは若い男優マシュー・テニスンで、台詞回しや身のこなしは男の子か女の子かわからないような曖昧さをこめたものになっています。サロメはセクシーな悪女ではなく、純粋で傷つきやすく、セクシュアリティに関する悩みを抱えた子どもで、大人たちがはやしたてる中で男性器を露わにして踊る場面は痛々しいものです。演出家のオーウェン・ホースリーはプログラムのインタビューで、この芝居が「とても直接的に十代の観客に語りかける」ものだと述べており、『サロメ』は大人向けの残虐でセクシーな戯曲だという固定観念に挑戦しています。

サロメは美の求道者?

 こうした説の中で、上演台本として考えた時、私が一番魅力的で説得力があると考えるのは、最後にあげたサロメをワイルドのある種の分身と見なす解釈です。『サロメ』は芸術に関する芝居であり、ヒロインは絶対に手に入らない男性の愛を求めている美の求道者なのではないでしょうか。

 この作品に登場する預言者ヨカナーンは美しく、サロメはその音楽のような声、白い肌、黒い髪、赤い唇などを口をきわめて褒めちぎります(287 – 352行)。しかしながらヨカナーンは自身の美しさに全く気付いていませんし、サロメのことを見もしません。サロメは「私のことを見てくれたら、私を愛してくれただろうに」(1049–1050行)と言っていますが、ヨカナーンは神の声は聞くことができても、現世の美しさを感じることについてはからきしダメです。また、どうやら人を見る目はあまりないようで、ヘロディアスの娘だというだけの理由で、処女で男を嫌っているサロメを堕落した女呼ばわりします(291行)。ヨカナーンは自分が持つ美を無駄遣いし、人の美を認識することもできません。一方でサロメはヨカナーンの美を認識するばかりでなく、ダンスで自分自身美を創造します。サロメは徹底して美を追い求めているのです。

 しかしながら、サロメがヨカナーンに恋するのは、ヨカナーンが圧倒的な美を持つ一方で、サロメの美にたやすく心を動かされない人物だからでもあります。

 記事冒頭の引用で述べたように、サロメは男が嫌いです。この背景には、サロメが継父ヘロデから性的虐待を受けているということがあります。サロメの最初の台詞はヘロデからの性的嫌がらせを告発するもので、「お母さんの夫があんな目で私を見るなんておかしい。もう意味わかんない。ううん、本当はよーくわかってるんだけど」(125–127行)というものです。この「意味わかんない」という発言は、ヘロデの視線の意図が読めないという意味ではなく、わかりすぎるほどわかっているが、あまりにもおぞましいので認めたくないという心境を示すものです。

 若いシリア人ナラボスもサロメに恋しており、まだ幼いサロメは宮廷のさまざまな男たちから性的な目で見られているようです。そんな中で見つけたヨカナーンは「月のように貞淑」(266行目)で、おそらくサロメが今まで出会った中でも数少ない、自分を嫌らしい目で見ない男です。ヨカナーンはつらい家庭環境に耐えている十代の子どもが憧れるにはうってつけの、新鮮で孤高の雰囲気をたたえた高嶺の花のような人物です。絶対に手に入りそうもない近づきがたさが余計、恋心を燃え上がらせます。

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作者の分身としてのサロメ

 周りの環境によって性的主体性を奪われ、美しいが自分の手には決して入らない男性を渇望しているというサロメの境遇は、美に最高の価値を置く唯美主義者であり、男性と恋愛関係にあったワイルドの境遇に直接重ねられるものです。

 ワイルドは唯美主義の旗手として、道徳や社会規範よりも美を重視する芸術的な信念を持っていました。一方、ワイルドが生きていた19世紀末のイギリスでは男性同性愛は犯罪で、表沙汰になれば社会的に抹殺される可能性もありました。実際、ワイルドは『サロメ』を書いた数年後に同性愛の罪で投獄されることになります。以前の連載で少し触れたように、ワイルドにとって男性の美しさは芸術的にも、人生においてもきわめて重要なテーマだったと考えられ、セクシュアリティと芸術家としての美学が強く結びついています。しかしながら、ヴィクトリア朝末期に男性美の追究を実践することは、危険な行為でもあったのです。

 サロメはこうしたワイルドの不安と強い美学的信念がいりまじったヒロインと言えると思います。道徳も規範も捨てて美を追い求め、自ら美を創り出すこともするサロメは唯美主義の芸術家です。一方でサロメがヘロデに殺される結末からは、美を求める者を社会が認めず、冷たい仕打ちをすることが示されています。このような美を求めてやまないが報われない芸術家というモチーフは短編「ナイチンゲールと薔薇」など、ワイルドの他の作品にも見られるものです。そしてワイルドは結局、サロメやナイチンゲールのように、美を求めた末、投獄され亡くなるという結末を迎えました。

 いささかロマンティックにすぎる解釈だとは思いますが、『サロメ』はワイルドの芸術家としての自覚についての物語だと思います。美と社会の関係を描いた政治的な作品である一方、個人的な不安と信念の披瀝でもあります。そして、おそらく美を求める者は、たとえ社会から冷たくされるとわかっていても、美を求めずにはいられないものなのです。

参考文献

エレイン・ショーウォーター『性のアナーキー――世紀末のジェンダーと文化』富山太佳夫他訳(みすず書房、2000)。
ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像――世紀末幻想としての女性悪』富士川義之他訳(パピルス、1994)。
ケイト・ミレット『性の政治学』藤枝澪子他訳(ドメス出版、1985)。
Toni Bentley, Sisters of Salome (University of Nebraska Press, 2005).
Jane Marcus, “Salome: The Jewish Princess Was a New Woman”, Bulletin of the New York Public Library, 78 (1974): 95 – 113.
Royal Shakespeare Company, Oscar Wilde: Salomé (2017).
Oscar Wilde, The Importance of Being Earnest and Other Plays, ed. by Peter Raby (Oxford University Press, 1998).
Oscar Wilde, De Profundis, in The Soul of Man, and Prison Writings, ed. by Isobel Murray (Oxford University Press, 1999), 38 – 158.

最終更新:2017/10/11 07:15
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