本多圭の「芸能界・今昔・裏・レポート」

伝説の“P盤歌手”二美仁、逝く──厳寒の刑務所に響かせた歌声と激動の人生

2019/02/15 23:00

※イメージ画像

 北海道札幌在住の演歌歌手、二美仁(本名・村岡洋一)が2月4日、大腸がんのため亡くなった。享年70歳。歌手活動の傍ら、35年以上にわたって刑務所の篤志面接委員を務め、カラオケ指導を通じて受刑者の更生に貢献してきた。

 筆者が二美仁と出会ったのは、今から約35年前にヒットした「津軽じょんがら流れ唄」がきっかけだった。この曲は、村木賢吉の「おやじの海」の大ヒットで一躍有名になった佐義達雄氏が作曲。東京・赤坂でスナックを経営していた釧路出身の歌手・五郎正宗がレコーディングして全国発売した。

 筆者は、この曲のプロモーションを担うことになった芸能プロの社長から「この曲は必ず、ヒットする。プロモーション費が乏しいから、協力してくれないか」と頼まれ、レコードのジャケット作成に関わった。当時、新橋の居酒屋で飲み仲間だった著名なイラストレーターや広告代理店関係者に協力を仰いで作成したが、曲の全国発売に合わせてのキャンペーンという段になって、五郎のわがままに我慢できず、手を引いた。

 ところがその後、同じ芸能プロの社長から「『津軽じょんがら流れ唄』を自主製作して、道内で2カ月余りで2万枚売った歌手がいる。一緒に札幌に行って会ってくれないか?」と頼まれた。そこで会ったのが二美仁だった。

 二美は、南国・宮崎県出身の元高校球児だが、野球を断念してからは、歌手を目指して上京。1967年に日本コロムビアから念願の歌手デビューを果たした。といっても実態は、コロムビアの名を使って活動することを許可されただけ。自主製作で自ら営業して売り歩く、業界用語で“P盤歌手”と呼ばれる歌手だった。

 当時は、メジャーデビューしたい歌い手たちの心理につけ込んだ芸能ブローカーが「俺が売り出してやる」と接近。詐欺まがいのマネジメント料を取ることが少なくなかったが、二美もその“被害者”の一人だった。

 当時、二美の父親は宮崎県で料亭を経営していたが、二美の売り出しで全財産を失ってしまう。一方、ブローカーに騙され、東京に失望した二美は札幌に流れた。そこで出会ったのが、当時ススキノのクラブのNo.1ホステスだった美喜子さんだった。

 二美と結婚した美喜子さんは、ホステスを辞め、ススキノにサパークラブ『鹿の園』をオープンして二美の歌手活動を支えた。二美は、歌手活動の傍ら、全国の刑務所や老人ホーム、厚生施設などを慰問。1984年には、法務省から北海道樺戸郡月形町にある月形刑務所の篤志面接委員に任命され、日本で初めて刑務所でカラオケ教室を開いた。以降、歌唱指導を通じて、受刑者の更生教育を行うようになった。

「人間は常に塀の上を歩いているんです。僕もそうです。ただ表に落ちるか、塀の中に落ちるかの違いでしかないのです。一日も早い社会復帰を望みます」

 そんな言葉で受刑者に更生を呼びかけ、ひたむきに活動を続ける二美を、筆者もなんとか売り出せないかと奔走した。ツテを頼って、ドキュメンタリー番組『中村敦夫の地球発19時』(TBS系)で二美を取り上げてもらったこともあった。それもあって札幌では一躍、時の人にもなったが、二美はおごることなく、雨の日も豪雪の日も、「受刑者が待っているから」とボランティア活動を続けていた。さらに二美は、ワイドショーの1コーナー「刑務所潜入」のコーディネートを引き受け、受刑者の更生までの道のりを紹介した。

 そうした功績が認められ、二美は2013年に藍綬褒章を受賞した。

 それから5年、昨年9月に筆者は、二美から自分と美喜子さんががんに侵されていることを電話で打ち明けられた。ショックを受ける筆者に、二美は、「吾亦紅」の大ヒットで紅白にも出場した歌手で作曲家の杉本真人氏が、友人とともに『鹿の園』に初来店したことを伝えてきた。杉本氏と筆者は以前からの知り合いだが、その縁で、二美に曲をプレゼントしてくれることを約束して帰って行ったという。二美は、感激しながらそれを報告してきた。

 それから1カ月後に美喜子さんが他界。すでにがんが末期まで進行していた二美も、美喜子さんの後を追うように亡くなった。杉本氏の曲を楽しみにしていただけに、残念でならない。二美仁に改めて合掌。
(文=本多圭)

最終更新:2019/02/15 23:00

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