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日刊サイゾー トップ  > 『鎌倉殿』の「クレイジー義経」と史実

『鎌倉殿』の「クレイジー義経」は『義経記』に忠実? 弁慶をだまし討ちしたエピソードも…

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『鎌倉殿』の「クレイジー義経」は『義経記』に忠実? 弁慶をだまし討ちしたエピソードも…の画像1
源義経(菅田将暉)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』第8回は、源頼朝が念願の鎌倉入りを果たすなど、物語が本格的に動き出した感がありました。その一方で、ドラマの本筋にはまだ絡んでいないのに、一番目立っていたといえるのは源義経(菅田将暉さん)だったのではないでしょうか。

  『鎌倉殿』では、過去の大河ドラマではまず描かれたことのなかったタイプの義経像が打ち出されていたと思います。ウサギを奪い合った相手を(いくらゴロツキのような男であったにせよ)、だまし討ちで殺しても平然としているドラマの義経に驚愕したネット民からは「バーサーカー(=狂戦士)義経」「サイコパス義経」「クレイジー義経」などとも呼ばれていたようです。現代人の目にはかなりショッキングな描かれ方に映ったということでしょうね。しかし、この連載でも何度か申し上げているとおり、源平時代の武者たちに、われわれが知るような「武士道」の精神などは宿っていません。

 近年の歴史創作物の義経像とはかなり違う『鎌倉殿』の義経ですが、面白いことに、室町時代には成立していたとされる『義経記』などで描かれた義経像とは本質的な部分でかぶるところもあるのです。今回のコラムでは、そういうお話をしていきたいと思います。

 菅田将暉さんが『鎌倉殿』の義経に起用されたのは、彼が爽やかな外見の持ち主で、それは「義経=美貌の人」という伝統に沿ったものであろうことはわかります。しかし、源義経はいつの時代から美貌の人物として描かれてきたのでしょうか? 

 残念ながら、義経の容貌について語った史料は彼の生前には存在せず、義経の肖像画とされる画もすべて後世の想像によって描かれています。一方、彼の正室・郷御前や側室の静御前など、記録に残る女性たちが義経に示した献身ぶりからは、彼が強く慕われていたことがわかり、外見的な魅力も相当にあったのでは……という推測はできますね。

 ただし、義経の死後数十年以内に成立したともいわれ、彼の容貌について述べた中でもっとも古い資料である『平家物語』(巻十一)には、こう記されています。「色しろう背ちいさきが、向歯のこと(=殊)にさしいでて」……つまり、色白で背が低いが、前歯がとにかく飛び出ているのが義経の特徴だと書かれてしまっているのでした。

 『平家物語』の義経像は、平家の侍大将たちが、やっかいな敵である義経を見つけ出し、生け捕りにする手段を話し合うという平家視点の会話の中で描かれているものです。それゆえ、わざと貶めるように語られて当然ではありますが、前歯がすごく出ていたという話は真偽不明ながら、面白い情報ですね。

 補足しておくと、「低身長」は源平時代においては肯定的な要素でした。戦国時代には、特に大将格の武将には必須要素となるほど高身長が重視されるようになるのですが、少なくとも源平時代当時では、男女ともに身長が高すぎるのは不格好さの証しだったのです。『義経記』では、弁慶の高身長ぶりを「あらいかめしの法師や、丈の高さよ(=なんて恐ろしい法師だろう、背が高すぎる)」などとネガティブに表現していたりします。具体的に何センチ以上が(あるいは以下が)望ましいと考えられていたという数字はないのですが……。

 義経は、兄・頼朝に尽くしたにもかかわらず切り捨てられ、追討されて殺されてしまうという悲劇の運命によって文字どおり「判官びいき」される中で、その容貌も悲劇の英雄のイメージにふさわしく、洗練されていったのではないかと考えられます。

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