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ダイバーシティは「取り戻す」もの 差別の歴史の中で生み出された”性的指向”と”性的嗜好”の違い

 人に何かを教えるということは、とても難しい。

 どのような順序で説明すれば分かりやすいのか、どのくらいゆっくりステップごとに話せば付いてこれるのか、どのくらい相手を褒めながら進めていけば相手のモチベーションが下がらないのか——そういったことを多かれ少なかれ考えながら、私たちは人に何かを教えている。職場の新人にマシンの安全装置の解除方法を教える、塾の生徒に因数分解のやり方を教える、高齢者にタブレットの使い方を教える、あるいはバーで隣に座った人に最近あった面白い話をすることだって、相手が理解するためには、それなりの話す技術が必要なのだ。

 以前、まだ習っていない地球の自転についてテストの回答に書いたらバツをつけられた小学生の話が話題になったことがある。実は筆者も影が動く理由を「地球が自転しているから」と書いてバツをもらったことがあり、腑に落ちない気持ちになったのを覚えている。小学校では影が時間とともに動く理由を低学年で「太陽が動いているから」と学び、そのあと学年が上がってから「地球が自転しているから」と学ぶようだ。

 教育現場だって、子どもの成長度や理解力を真剣に考えてこうしているのだろう。単に「間違ったことを教えている」と非難することはできない。一方で、たまたま高学年で学ぶことを知っている児童にバツをつけることが正しいのかどうか、意見は分かれるだろう。

 ところで、世の中はここ数年 LGBT ブームだ。行政も企業もメディアも、以前とは比べものにならないくらいに LGBT について考えている。LGBT の市民、LGBT の従業員、LGBT の顧客、LGBTの学生……私たち LGBT が社会のそこら中に存在していることに、ようやく気づいたらしい。

 LGBT についてもっとちゃんと理解したい、学びたいという需要を受け、コンサルティング業者や市民団体が講座やセミナー、研修などを販売し、規模は小さいものの一つの産業を形成しつつある。「LGBT について教える」ための教材やノウハウの蓄積が、急ピッチで進んでいるのが現状だ。

 これまでは、一人一人の当事者や小規模市民団体がそれぞれ独自に考えていたこと――それは個人の経験ベースだったり、感情にうったえるものだったり、草の根的に蓄積された知見だったりした――が、たまたま LGBT(あるいは「性同一性障害」などの特定のトピック)に関心を持った行政・企業の担当者を通して、発表の場を獲得して来た。

 しかし今コンサルティング業者や市民団体は、説明すべき順序について、学習のペースについて、また学習者のモチベーションについて、ある程度統一的な見解を共有し始めている。LGBT について、どんな知識や考え方が基礎的、入門的とされるのかが決まりつつある――LGBT 学習要綱が作られつつあるということだ。

 それは LGBT について未だに「語り」を求められる当事者の負担を減らすことになるだろう。しかし、学習要綱のようなものが画一化されることには不安もある。

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性的嗜好と性的指向は区別すべき?

 LGBT についての基礎的な知識の一つに、「同性愛や両性愛、異性愛は性的嗜好ではなく性的指向である」というものがある。これ自体は以前から言われてきたことだし、少し LGBT(あるいは同性愛や両性愛)について学ぼうとすれば早い段階で知る内容ではあった。しかし当事者のあいだにも広範に広がり、日本でも基礎中の基礎の前提知識であるかのようになったのは、やはりここ数年のことのように感じる。

 「性的嗜好ではなく性的指向」というのはつまり、特定の性的行為などを好むかどうか、特定のフェチシズムがあるかどうかなどを表す「嗜好」とは違い、同性愛、両性愛、異性愛はもっと根本的な、人がどの性別に対して性的関心を向けているかに関する分類ですよ、という主張である。「たかが“趣味”なのに差別とか大げさだよ」と思う人がまだ多くいる現代社会において、この「性的指向」という概念は確かに有効なのだろう。

 しかしこれは、人間の性や、それが社会でどう解釈されているかなどについて学術的に研究する分野(ジェンダー研究、セクシュアリティ研究、クィア理論など)の勉強を進めていくと、必ずしも正しいとは言えないものだと知ることになる。つまり「性的指向」という概念は、「影が動くのは太陽が動いているから」と同じように、これから学ぼうとしている人たちが理解しスムーズに次のステップに進む、そのために学習の初期段階に配置されているものなのだ。

 では、勉強を進めたときに見えてくる性的指向についてのより深い解釈とは――つまり「地球が自転している」にあたる部分とは――何なのだろうか。

性的指向は差別の歴史が生み出した

 江戸時代の日本や古代ギリシアで男性同士の性愛関係が文化の一部であったことは、聞いたことのある人も多いだろう。そのどちらも、身分制度と密接に結びつき、また男性にのみ許された文化であった(女性はそもそも性的欲望の対象であり、主体にはなり得ないと思われていた)。また、「同性愛を禁忌とする」とされるキリスト教においても、禁止事項は肛門性交(アナルセックス)、口腔性交(オーラルセックス)などであり、同性同士に限らず異性同士でも行ってはならないとされていた。

 つまりこれら前近代の社会において、男性同士の性愛関係は「身分にふさわしい嗜み」や「誰もがやってしまうかもしれない許されざる行為」として解釈されていた――男性同士の性愛が、まさしく「性的嗜好」であったことを意味する。現代社会で「嗜好」とされるものの多くは男性の欲望の様々な現れ方のバリエーションとして認識/容認/禁止されてきた歴史があるが、同性愛もかつてはそのひとつだったというわけだ。

 それが近代を迎えて、大きく変わることになる。

 男性が男性と性愛関係を結ぶのは趣味のようなものではなく人間としておかしい、とされるようになったのだ。それが、性的嗜好とは別のものとしての「性的指向」の歴史の始まりである。この背景には、人口を管理するために結婚や出生率、避妊などの把握が必要だと認識した近代国家と、人間の性愛について道徳や科学、医療、法律の観点から語り出した専門家たちの存在がある。そこでは、性的欲望を分類する最も重要な基準は、体格でも民族でも他の何でもなく「男女という性別」であるとされた。

 前近代と近代以降の違いを理解するために一つの例を出そう。例えば私たちは、誰とも性的な行為をしたことがなくても「自分は異性愛者だ」とか「彼は同性愛者だ」と分類しているし、そう分類できると思っている。誰もが異性とも同性とも性愛関係を結んでしまうことはあるけれど身分によってはダメですよとか、誰もが異性とも同性とも性的行為をしてしまうことはあるけれどアナルとオーラルはダメですよとか、そういう理解を私たち近代社会に生きる人々は捨てたのだ。

 それ以来同性愛は、個人の重要な特性/属性とみなされるようになり、異常な精神を持った人間の持つ性愛として扱われたり、犯罪者の持つ性愛として扱われたりといった歴史を歩むことになった。現代社会で私たちが経験する同性愛者差別の歴史の原点は、「性的指向」概念の発明にあったのだ。

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それでも存在する、性的嗜好と性的指向の違い

 ではなぜ「性的指向は性的嗜好と違うんだ」という主張が行われているのだろうか。性的指向が歴史上ある時期に発明された「人間の性に関する一つの解釈」に他ならないのであれば、嗜好も指向も同じではないか。しかしこれにはいくつか理由がある。

 一つめは、同性愛という「性的指向」概念がいかに近代の産物であったとはいえ、私たちはその近代の延長線上に生きており、その「性的指向」概念に基づいて差別を受けているからである。この差別を解消するためには、「色々な人がいるよね」というダイバーシティー(多様性)の理念だけでは不十分だ。異性愛とは異なるものとして同性愛が、異性愛「者」とは異なる人間の種類として同性愛「者」が差別されてきたという歴史の先端に、私たちは生きているのである。

 二つめは、たとえ差別を目的とした不当な分類だとしても、同性愛「者」としてカテゴライズされた人たちはそのカテゴリーを逆手に取り、あえてそのカテゴリーを受け入れアイデンティティーにすることで、「差別されている」という共通点を軸にサブカルチャーや社会運動を生み出してきたからである。また、そのプロセスで他の被差別カテゴリーの人々とも関わり、連帯をしてきた。そうして形成されたコミュニティに生きる当事者にとって「性的指向」は単なる性的欲望の分類ではなく、ライフスタイルや価値観などを含む大きな概念である。

 三つめは、同性愛という「性的指向」の概念こそ未だに私たちの人間の性についての解釈の基盤になってはいるが、それを踏まえた上でどう判断するかの価値観が変わってきているからである。つまり、生まれながらの根本的な性質だから差別してよいのだという時代から、生まれながらの根本的な性質だから差別してはいけないという時代に変わってきたのだ。個人の重要な特性/属性としての「性的指向」概念に苦しめられてきた私たちだが、今後はむしろそれを利用し続けることが差別の解消につながり得るのだ。

 太陽が実際に動いているのは事実である。だが、太陽系ごと動いているだけなので、地球上で影が動く理由を問う設問とは無関係だ。それと同じように、「性的指向と性的嗜好は違う」という主張も、歴史を見れば事実である。しかしそれは、人間がどう欲望を持つかという身体/精神の仕組みとは無関係だ。

 私も LGBT という言葉を使うが、それは同性愛者やトランスジェンダー当事者の被差別の歴史を認識/尊重するためであって、本来的な意味で他の性的嗜好やアイデンティティのあり方と決定的に何かが違うからではない。

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ダイバーシティー(多様性)は取り組むのではなく、取り戻すもの

 昨今の行政・企業の LGBT 施策では、ことさら「ダイバーシティー」という言葉が掲げられる。それは「先進的な行政や企業が取り組み始めているもの」であり、目指すべき社会のあり方として啓蒙される概念である。しかしここには、抜け落ちている視点がある。

 それは、ノーマティビティー(規範性)とマージナライゼーション(周縁化)である。ダイバーシティーを掲げる人々には、ぜひこれらの概念も知ってほしい。前者は「正しい性愛のあり方」「正しい女性のあり方」「正しい男性のあり方」などを決める価値観が社会全体に一定の強制力を持って存在している状態を指す。後者は、そのノーマティビティーによって「正しくない」とされるものを社会的に不利な立場に置く力のことだ。翻って言えば、このマージナライゼーションが脅しになって、ノーマティビティーに一定の強制力を与えている。

ダイバーシティは「取り戻す」もの 差別の歴史の中で生み出された性的指向と性的嗜好の違いの画像2

 ゲイル・ルービンという文化人類学者が Thinking Sex: Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality (1984) で示したこの図は、性のヒエラルキー(序列)を表している。ここでは、現代社会で何が正しい性愛のあり方だと思われているか、それがどう中心と周縁という位置関係に配置されているかが示されている。

 もともと画質が悪く読みづらいが、「良い、ノーマルな、自然な、祝福された性」として異性間であること、婚姻関係の内部であること、モノアモリー(一人の人を愛する)であること、妊娠出産につながり得ること、商売でないこと、ペアで行われること、恋愛関係を伴うこと、同世代間であること、プライベートな空間で行われること、ポルノを利用しないこと、身体のみで交わされること、SM的要素がないことが中心に配置されている。

 一方で、それに当てはまらないもの――同性間であること、婚姻関係の外部であることなど――は、「悪い、アブノーマルな、不自然な、忌まわしい性」として図の周縁に配置されている。つまり、性的指向も性的嗜好も、「良い、ノーマルな、自然な、祝福された性」を中心とする配置図において序列化され、非難や差別、抑圧、迫害の指針となってきたことがわかる。

 本来ぐちゃぐちゃで、誰一人として同じ欲望を持つ人なんていやしないのだ。一人の人間を取り上げてみても、その人が10年後に今と同じ欲望を持っているかなんてわからない。それを私たちは無理矢理カテゴリー化して、序列化している。特に同性愛に関しては、人の特性/属性として、あたかも別種の人類であるかのように扱われ、抑圧されてきた。

 そのカテゴリーを前提として「ダイバーシティー」を唱えるなら、それは単なる図鑑作りにしかならない。ダイバーシティーは初めから存在していたのだ。ぐちゃぐちゃな姿で。それを見えなくしているのがノーマティビティーとマージナライゼーションである。

 私たちはダイバーシティーに「取り組む」(図鑑作りに励む)だけではなく、ダイバーシティーを「取り戻す」(ノーマティビティーとマージナライゼーションに抵抗する)必要があるのではないか。それは、一度「太陽が動いているから」を経由するのではなく、初めから地球の自転について教えたり、太陽系ごと太陽が動いていることを教える試みだ。

 地球の自転から教えたって、太陽系の大きな動きから教えたって、私たちが宇宙について何かを学んでいることには変わりない。「太陽が動いている」から始めることが本当に全員にとって理解しやすい順序なのかすら分からない。だったら性に関しても、「性的指向と性的嗜好は違います」から始まらない説明だっていいし、もっと言えば「性的指向という概念の誕生と、それによる差別の歴史」から始まる説明だっていいはずだ。

 そうして複数の体系だった教え方を作っていくにあたり必要となるのは、当事者含め LGBT について教えようとする側が、教わる側の理解力を過小評価しないことだろう。LGBT 当事者であるかないかに関係なく、性は多様である。逆に言えば、LGBT であるからといって複雑な人間の性愛について特別深い理解をしているとは限らない。さらに、差別を受ける経験は性に限らず民族差別や障害者差別、性差別など多岐にわたる。LGBT に関して教えてもらいたいと思っている人はどうせ何も分からないだろうと決めつけるのは傲慢であるし、むしろ私たち人間の多様性を無視することになるだろう。

最終更新:2017/10/13 07:15
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