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過去と未来──古さと新しさが交わる街の新たな人情・山谷酒場のあたたかさ

店舗外観

 山谷酒場は、いろは会商店街の西寄り、日本堤1丁目10番6号の、もとはパン屋だった建物の一階を占めている。開くことなく朽ち果てていくシャッターが目立つ街に、久しぶりにオープンした、地元の人も期待する酒場である。

 かつては、日雇い労働者の街だった山谷。東京でも独特な地域の繁華街だったいろは会商店街は、時代の流れによる街の変化と共に、様変わりした。

 多くの労働者がドヤに住み、日々の労働に励んでいた時代。街には、たくさんの大衆食堂や酒場があった。商店街は、街の中心。夕方を過ぎれば、その日の稼ぎを得た労働者で、店は真っすぐ歩くのも大変なほどに混み合っていた。

 けれども、そんな賑わいは、もう過去のことである。産業構造の変化と共に、街も変わった。今では、ドヤに住まう大半は行政の保護を受けているかつての労働者。そして、安宿を求めてたどり着いた国内外の旅行者たち。最寄りの南千住駅も、今は再開発された街特有の、小洒落た駅。何層にも重なりコンクリートの柱に貼られていた新左翼系のビラもなく、改札をくぐると、自然にごくんと唾を飲み込んでしまう緊張感も、すでにない。威圧的で禍々しい雰囲気すらあった山谷交番も、今では単なる大きな交番である。

 街の変化と共に、商店街は衰退した。全国の終わりゆく商店街がそうであるように、客の減った、未来の展望のない店が、次の世代に受け継がれることはない。年齢を感じたり、何がしかの病気を得て、潮時と感じてシャッターを下ろすだけ。運のいい商店主は、デイケアだとか福祉系の事業所を店子にして、いくばくかを稼ぐ。でも、大半はシャッターを下ろしたまま、買い手も借り手もつかずに朽ち果てていくだけ。

 シャッター通りとなった商店街のアーケードは、昼間でも薄暗いだけの道になった。このままではいけないと、山谷が描かれる『あしたのジョー』のふるさとであることを掲げて、オブジェが並んだりもしたけれど、それでも街は変わらなかった。いつしかシャッターの前に、さび付いた自転車が並ぶのが、街の当たり前の風景になっていた。

 街を変えたいという地域の心情と、経年劣化も合致して、アーケードは2017年度に撤去された。通りの薄暗さはなくなったけれども、それだけで賑わいが戻ってくるはずもない。昼は、歩く人もわずか。日が暮れれば、ねぐらのない人がシャッターの前に布団を敷いて、しばしの安らぎを得る。街の古株が語る、かつての賑わいも、思い出が美化されたおとぎ話のようにしか思えない。

 沈んだ街にも、少しばかりは変化がある。酒場がそうだ。かつて、大勢の労働者で賑わった長いカウンターの大衆酒場。角打ちさせる酒屋。前世紀が終わる頃までは、都市に暮らす豊かさを求める人々は、そんなものは視界にも入れなかった。それらは「低俗」で、品性に欠けた人が集う場所。そんなところだと思われていた。それがどうだろう、今では女性までもが、それらに新たな価値を見いだし、ライフスタイルの中に取り入れている。そうした店が、点在する山谷には、わざわざ電車を乗り継いでくる人もいる。中には、予約しないと入ることもできないような酒場まである。

 山谷酒場を開いた酒井秀之がやってきたのは、そんな街である。

 丁寧で控えめな言葉遣いや立ち振る舞いに反して、酒井の人生はいささか無頼である。誰もが人生の早い時期に、何がしかの月給取りになって安定と安心を得たいと思う現代、酒井は青春期の大半をフリーターとして生きてきた。

「デパ地下でシェフをやったりしていたけど、ずっとフリーターで……28歳の時に初めて、福祉施設に正社員で入社したんですが、やっぱり喫茶店でも働きたいと思って、福祉のほうは非常勤にして……週3回は、喫茶店で働いてました」

 生まれ育ったのは岐阜。名古屋文化圏の地域性ゆえに、喫茶店は日常に当たり前に存在するものだった。「喫茶店は、好きとかじゃなくても、行くものと思ってました」それも、カウンターで注文して、自分で席を探すチェーン系ではない。昔ながらの、ソファ席があって、新聞が何紙も置いてあるような、純喫茶へ。今では純喫茶は、すでに時代から遅れたスタイルになりつつある。そうした店に入るのは限られた客層。もしも、さまざまな人に入ってもらい、利益を求めるならば、街でよく見かけるカフェのほうがいい。でも、酒井は昔ながらの喫茶店のほうがしっくりきた。

 生活に根ざしていて特段意識していなかった喫茶店を自分が好きだと気づいたのは、大阪を訪れた時だった。大阪の街が持つ独特の雰囲気は、心地よかった。その街を何度か訪れるうちに、喫茶店に魅力を感じている自分にも気づいた。

 特に気に入ったのは、西成区にある珈琲屋ナカノ。往時の純喫茶のスタイルのまま、時が止まったかのような店に引き込まれた酒井が東京で見つけた、喫茶店の働き口。それは、神保町のミロンガ・ヌオーバだった。さぼうるや、ラドリオなどの古い喫茶店が並ぶ裏路地にあるタンゴの流れる店。時の流れが染みこんだような調度品に囲まれて働くうちに、自分も店を始める決意が固まった。

 西調布に喫茶楓をオープンしたのは15年10月。覚悟はしていたけれど、なかなか客足は伸びなかった。長く続いている喫茶店というのは、大抵は店が店主の持ち家だったり、昔の契約とか、何がしかの理由で家賃が低く抑えられているもの。近所の人々が常連にはなってくれたものの、営業中の札を出していても悠然と流れている時間のほうが長かった。厳しさを感じつつ、何かをやらなければと思った。ふと、思いついたのはTwitterだった。でも、アカウントを作ってみてから、酒井は考えこんでしまった。

「店には日替わりメニューもなくて……ツイートすることが特になかったんです」

 放っておいてもしようがないと思って、半ば人力BOTのように、それまで歩いたことのある街の風景をアップするようになった。街歩きは、喫茶店以前からの趣味だった。坂に惹かれて、あちこちの坂を歩いて回ったこともある。井戸の手動ポンプに惹かれた時には、1,000くらいの井戸を見つけて歩いた。そんな写真を、毎日4枚ずつアップしていた。

 不思議なことに、徐々にフォロワーが増えていった。喫茶店のアカウントのはずなのに、まったく自分の店のことに触れずに、ずっと街の写真を上げている。それが、面白い……そんな見方をされていたことは、後から知った。それまでになかったつながりが増え、店を訪れてくれる人も出てくるようになった。

 とはいえ、少しばかり客足が伸びても、喫茶店で利益をあげることは難しい。見切りをつけようと思った時に考えたのが、酒場だった。

「何か、もう一段自分をステップアップするには、酒場しかないな……自分が好きなのは喫茶店と酒場だから」

 そんなことを考えたり、出会ったりしていると「うちの街に、おいでよ」と、声をかけてくれる人が現れた。Twitterを通じて知り合った親しい友人の一人に、カストリ書房の店主・渡辺豪がいた。16年に遊郭専門の書店をオープンした渡辺は、次いでカストリ出版を立ち上げて、遊郭や赤線、歓楽街などの書籍を世に送り出していた。そんな店があるのは、山谷から目と鼻の先の吉原である。吉原の表通りは、ソープランドが並ぶ風俗街。男なら歩けば、日の高いうちから呼び込みに声をかけられるような街。ところが、そんな街にあるカストリ書房には、女性客も多く訪れる。そんな街に新たな風を吹き込んでいた渡辺が紹介してくれたのは、カストリ書房からは道路を挟んだ目と鼻の先の物件。

「ここは、商店街の中でも一等地。物件探しはすごく大変なんだけど、一番よい場所が取れたんです」

 商店街の人々や行政も協力的だった。それまで、店を借りて閉じたままのシャッターを開けたいという業種は、大抵はデイケア。商店街にかつての賑わいを取り戻したいと、誰もが考えている中で、山谷酒場は大歓迎されたのである。

 こうしてオープンに至った山谷酒場は、朝から忙しい。朝8時から2時間は、モーニング喫茶・楓として営業する。それから、仕込みの時間があって、山谷酒場は夕方4時から夜の11時まで。居酒屋の基本メニューから、酒井が考えたオリジナルメニューまで、料理は多彩。ピリ辛の麻婆豆腐は、どんな酒にも合うようで、評判だ。

 酒で目立つのは、オリジナルの山谷酒と名付けた漬け込みのリキュール。そして、世界のビールも揃う。ビールを多彩に揃えたのは、どうしても値が張ってしまう生ビールは置けないから。店を訪れる人の財布に優しくしたいという、酒井の優しさである。自分の店だけが繁盛しようと思っているのではない。地域に点在する店を回って、はしご酒をする。そんな楽しい時間に山谷酒場も入ればいいと思っている。

 調度品も独特。店の看板やテーブル、椅子の色遣いは、日本の大衆酒場のイメージを裏切る。どこか、東南アジアあたりのバックパッカー街にある店のイメージである。

 ここは、単に地元に根ざしただけの店ではない。地元の人。味のある酒場を目指して、電車やバスでやってくる人。そして、国内外から集まる旅行者。そうした人々が、楽しい酒の刹那に交わるのが、山谷酒場という場。かつて、大勢の労働者で賑わっていた時代。山谷は、さまざまな問題を抱えつつも、流れ着いた者たちが、お互いに励まし合いながら生きていく人情の街だった。そんな街の伝統を思い出しつつ、新たな形で進化していく店。それが、山谷酒場の本当の魅力なのである。

「人生は一回しかないし……さすがに、もう年齢も40歳を過ぎて、お店は作れないと思うし、いい意味で最後の店にしたいですね」

(取材・文=昼間たかし)

最終更新:2018/12/20 22:30
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