日刊サイゾー トップ  > 徳川慶喜「一癖ある御方」の“黒歴史”

『徳川慶喜公伝』編纂をすぐに許可できなかった「一癖ある御方」慶喜の“黒歴史”

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

渋沢栄一の“放蕩息子”篤二――異母弟が「常識円満」の嫡男を羨んだワケの画像1
ドラマ公式サイトより

 大河ドラマ『青天を衝け』の放送も、残り3回だそうですね。最近は大きな出番がなかったものの、徳川慶喜が本作の「第二の主人公」として描かれたことは疑いようもありません。前回の放送でも、明治22年(1889年)に行われた「東京開市三百年祭」で旧幕臣たちが再会し、幕府そして慶喜の復権運動の機運が高まる姿が見られました。

 そして明治26年、季節が夏から秋に変わる頃だったそうですが、徳川慶喜の公式伝記となる『徳川慶喜公伝』の編纂事業が渋沢によって発案されました。渋沢は同伝記の著者ということになっていますが、正確には“編集長”といったところでしょう。発案から約25年もたった後の大正7年(1918年)、『徳川慶喜公伝』は全8巻の書物として刊行されました。かなりの長期に及ぶ編纂作業は、本にまとめあげることがいかに困難な仕事だったかを物語っているようです。

 そもそも当初、慶喜は自分の伝記が作られることには反対でした。第一巻には冒頭に渋沢の筆による「序文」が掲載されているのですが、慶喜から「世間に知れるのが好ましくない」と一度断られたことを明かしています。

 では渋沢はどのように慶喜を説得したのでしょうか。慶喜には、自身について勝海舟などが好き勝手に語った内容に心を痛めている様子がありました。渋沢はそうした慶喜の本意を見抜き、「必ず世間には知れぬやうに、深く私の筐底(きょうてい、文箱の底≒今でいえば、机の引き出しの中くらいの意味)に納めて置きます」として、「(慶喜の)御死後に於て発表するものとしたならば、御厭(おいと)ひなくもと思はれます」……伝記は今から作り始めるけれど、あなたの死後に公表するからご心配は無用などと強引に作業を進めたのです。

 慶喜は言い出したら聞かない渋沢の気性を熟知していたのでしょう、「それ程の熱望ならば承諾はするが、世間に公にするのは、(私の)死後相当の時期に」との条件付きで渋沢に伝記の制作を許可したのでした。次回の放送では「(病気に倒れた)栄一の見舞いに訪れた慶喜は、“生きてくれたら、自分のことは何でも話す”と、涙ながらに語りかける」シーンがあるそうですが、史実はそこまでドラマティックではないようです。

 約25年間にも及んだ伝記編纂が進められる一方で、幕末以降は政治から遠ざかり、公的な場所を避けてきた慶喜の復権も進んでいきました。前回のドラマでも描かれたとおり、静岡を離れて東京に転居した慶喜は、明治天皇との交流も開始しています。こうした状況もあって、慶喜は次第に自分の伝記の制作に対して協力的になっていきました。

 ほかにも慶喜が態度を変えた理由として注目されるのが、「鳥羽伏見の戦い」をめぐる評価の変化です。

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