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ニューヨーク嶋佐和也が語るプロレス・格闘技の今と昔「あのころの新日本はグダグダだったけど夢中だった」

7月31日に発売となったお笑い語り本「お笑いファン」(鹿砦社)に収められているインタビューの一部を当サイト限定で特別掲載。ニューヨーク嶋佐和也氏のプロレス愛をご覧ください!

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 文春オンラインによる「好きな芸人ランキング」で2年連続の1位に輝くなど、いま最も勢いに乗っているお笑いコンビのひとつといえるニューヨーク。コンビそろって空手経験者で格闘技好きで知られるが、嶋佐和也はそれに加えて大のプロレスファンでもある。思春期を直撃した格闘技ブームや暗黒期のプロレス、同郷の大スター・武藤敬司への想い、レスラーたちとの意外な交流、そして現在開催中の過去最大規模の単独ライブ「虫の息」などについて語ってもらった。

 1986年生まれの嶋佐は、小学校高学年から中高生時代にかけての最も多感な時期に格闘技ブームの洗礼を受けた。1990年代後半から2000年代はK-1やPRIDEの全盛期で、ゴールデンタイムに中継番組が盛んに放送されていた。当時の嶋佐少年も例に漏れず、格闘技ブームの影響を大いに受けた。

「当時、クラスの男子はみんな『K-1グランプリ』(フジテレビ系)を夢中で観ていて、その影響で小学校6年生の時に同級生から空手の道場があるから行こうよって誘われて、それで空手を始めたくらいハマっていましたね。そのころは、アンディ・フグやアーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドとか、ヘビー級のスターがたくさんいて。その後は魔裟斗選手とかが出てきて、『K-1ワールドMAX』(※中量級選手を中心にしたシリーズ)とかも見ていましたけど、小学校の高学年から中学校くらいまで熱心に見ていたヘビー級全盛期のインパクトが一番強く残っています。当時の選手はみんな好きなんですけど、特にジェロム・レ・バンナとかサム・グレコは好きでしたね。でも僕は空手をやっていたので、一番応援していたのは空手家である武蔵選手でした。同級生たちは派手な試合をする外国人選手が好きで、『武蔵の試合は判定が多いからつまんない』とか言ってましたけど、今考えても武蔵さんってすごい選手でしたよね。あの当時の層の厚いヘビー級の中で、日本人でグランプリ準優勝を2回しましたから。武蔵さんが細かったころから急にビルドアップして、ヘビー級の体格に成長した時もリアルタイムで見てましたから思い入れが深いです。

 当時は格闘技系のゲームもたくさんやってましたね。『(新日本プロレスリング)闘魂列伝』みたいなメジャーなプロレスのゲームはもちろん、初代のプレイステーションであった『一撃 鋼の人』っていう極真空手のゲームもやってました。これはロード時間が世界一長いんじゃないかってくらい長いゲームなんですけど。ロード中はメーターみたいなのが表示されるんですけど、なかなか読み込みが終わらなくてロードにマジで2分半ぐらいかかるんです。なのに試合が1分で終わるという(笑)」

 K-1などの格闘技に夢中になりながら、空手の道場にも通っていた嶋佐。実は、ごく短期間だけ柔道部に入り、そこで「後のオリンピアンと対戦」というミラクルにめぐり合っていた。

「ずっとマイペースで空手をやっていたんですけど、中学の同級生にめちゃくちゃどうしようもないヤンキーの同級生がいて、ヤンキーなのに柔道だけは真面目にやっていて県大会で上位に入るくらい強いっていう奴がいたんです。そいつが中学3年の時、柔道部の部員が少なすぎて団体戦に出られないから、空手やってるってだけの理由で俺を誘ってきて、無理矢理に柔道部に入れさせられました。俺以外にも何人か柔道部に入らされて、中3の春から夏の3~4カ月だけ、団体戦のためだけに柔道やりましたね。当時、ロンドンオリンピック(2012年)レスリング金メダリストの米満達弘さんが隣の中学にいて、そのころの米満さんは柔道の猛者としてならしていたんです。たまたま米満さんと僕が予選で当たって、結果は開始5秒で負けたんですけど、相手は後の金メダリストですから、今思うとすごい勲章というか、いい経験をさせてもらいました」

 格闘技と同時期に嶋佐がハマったのがプロレスだった。当時は、格闘技ブームに押される形でプロレス界の苦境が色濃くなっていた時期だ。最大手の新日本プロレスは一世を風靡した「nWoジャパン」(※米プロレス団体・WCWで誕生した人気ヒールユニットの日本支部として蝶野正洋が設立。黒字に白い軍団ロゴの入ったTシャツがグッズとして大ヒットし、結成初年度だけで6億円を売り上げた)のブームが終わり、次の展開が見いだせずに迷走状態になっていた。

「明確なきっかけは覚えてないんですけど、小学校の高学年くらいからプロレスも大好きになっていましたね。当時は新日本プロレスを中継する『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)がまだ1時間枠(※現在は30分枠)でやっていて、たまにG1クライマックスとかの大きな大会は夕方から生中継をしていたんですよ。同級生にもプロレスが好きな奴が何人かいて、そいつらと一緒にハマってましたね。だから最初は新日本プロレスから入って、時期的には『nWoジャパン』の最後の方くらいで、それから蝶野選手がnWoジャパンを解散して『チーム2000』(※天山広吉、小島聡らnWoジャパンの残党を吸収しつつ、小原道由&後藤達俊の『犬軍団』まで引き入れ、勢力を広げていった)を結成したりしていたころですね。1999年から2001年が僕の中学1年~3年の時期で、一番多感なころだったから本当に毎週夢中になって観てましたよ。橋本真也選手の『橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退!スペシャル』(※柔道銀メダリストの小川のデビュー戦の相手を橋本が務めたことから因縁が生じ、1999年に小川の暴走で伝説となった『1.4事変』などを経て、橋本が2000年4月の5回目のシングル戦に『負けたら引退』を懸けた。敗れた橋本は一時引退したが、後にファンの少年らの声に応え、引退を撤回した)とか、リアルタイムで泣きながら観てましたもん。当時の新日本はジュニアヘビーの試合が熱くて、金本浩二選手、大谷晋二郎選手、獣神サンダー・ライガー選手、エル・サムライ選手、ドクトル・ワグナー・ジュニア選手とか好きだったなあ。

 でも今思うとなんですけど……そのころの新日本プロレスは全体的には本当にグダグダでつまらなかった(笑)。たぶん、長い新日本の歴史の中でもあのころが一番つまらなかったんじゃないかな。迷走期というか低迷期で。なのに、当時のことはめちゃくちゃ覚えてるんですよ。永田裕志選手、中西学選手、吉江豊選手たちが結成したユニット『G-EGGS』(※長州力が永田や中西、吉江らを『格闘たまご』と評したことが由来。2000年に結成されて期待を集めたが、長くは続かず『たまごの殻は自分で破ろう』という元も子もない理由で解散した)とか、まったく流行らなかったですけど、鮮明に記憶にあります。あれは本当に流行らなかったな……。

 今になれば暗黒期だったなあと思うんですが、中学のころの僕たちは本当に熱中していたんですよね。当時って今ほど娯楽がないじゃないですか。今の子たちと違ってSNSもないし、サブスクもない。それに僕、野球とかサッカーとかバスケとかのスポーツがあんまり好きじゃなくて、運動部にも入っていなかったので、おのずと『スポーツ=格闘技とプロレス』って感じになったんです」

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(取材・文=佐藤勇馬/写真=増永彩子)

SNSや動画サイト、芸能、時事問題、事件など幅広いジャンルを手がけるフリーライター。雑誌へのレギュラー執筆から始まり、活動歴は15年以上にわたる。

さとうゆうま

最終更新:2023/07/31 09:00
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