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深読みCINEMAコラム【パンドラ映画館】Vol.751

音楽ドキュメント『シーナ&ロケッツ 鮎川誠』 愛することがロックだったマコとシーナの伝説

原曲はロック色が強かった「ユー・メイ・ドリーム」

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若き日の鮎川とシーナ。2人ともルーツ音楽に詳しく、敬愛していた(©Bob Gruen)

 1979年12月にリリースされたシングル曲「ユー・メイ・ドリーム」は、シーナ&ロケッツを代表する曲となった。当時、YMOとして大活躍していた細野晴臣がプロデュースしたアルバム『真空パック』の収録曲だ。テクノっぽさを感じさせる曲だが、本作ではデモ版となる「ユメ ユメ ユメ」の音源を聞くことができる。原曲はかなりロック色の強いものだった。

寺井「生前の鮎川さんがリリースを企画して、整理していた音源のひとつです。日本のロック史、ポップス史を知る上で重要なものだと思います。この音源が加わったことで、音楽ドキュメンタリーとしての厚みも出たんじゃないでしょうか」

 シーナは病気が発覚する直前のライブで、「シーナ&ロケッツのステージで歌うことが、私の夢でした」というMCの後に「ユー・メイ・ドリーム」を歌っている。「ユー・メイ・ドリーム」は単なるヒット曲ではなく、2人にとってとても大切な曲だったことが分かる。

寺井「鮎川さんはよく『俺はシーナのねじ巻き人形だから』と語っていました。突進力のあるシーナさんに引っ張られてきたことを実感していたようです。シーナさんとの生活があったからこそ、鮎川さんはずっと純粋でいられたんじゃないかと思うんです」

福岡で育まれた「めんたいロック」の土壌

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鮎川夫妻と3人の娘。娘たちにとっては自慢の両親だった

 福岡県久留米市生まれの鮎川誠、同北九州市生まれのシーナ、それぞれの生い立ちからライブハウスでの出会い、そしてシーナ&ロケッツとしての活動の歴史が語られる本作。タイプの異なる3人の父親像が映し出されている点も興味深い。

 最初の父親は、鮎川の実の父親であるJ.D フレイジー氏。進駐軍として来日した米国人で、久留米の料亭で働いていた梅子さんとの間に、鮎川を授かった。フレイジー氏は鮎川が幼い頃に帰米し、鮎川が中学生のときに亡くなった。父親の残したレコード類に触れたことが、鮎川と音楽との出会いとなっている。

寺井「父親のことはご本人に詳しくは聞いていないんですが、子どもの頃にはつらい目にも遭っていると思います。でも、鮎川さんは父親のことをまったく恨んでいませんでした。『僕はパパにも愛されていたよ』と明るく語っていました。取材する側はロックを始めた理由を生い立ちに求めがちですが、鮎川さんは純粋にロックに魅了されたように思います」

 鮎川は福岡を拠点にしたサンハウスのメンバーとして活躍する一方、福岡市で初めてのロック喫茶「ぱわぁはうす」でロックの名盤を鑑賞するイベント『ブルースにとりつかれて』を定期的に開き、手書きのパンフレットを参加者に配布していた。ロックの源流について調べ、先人たちが生み出してきた音楽の歴史の中に自分たちもいることを確かめていた。「ぱわぁはうす」店員で、鮎川と懇意にしていた松本康氏は、のちに福岡市で有名な輸入レコード店「ジュークレコード」を開くことになる。彼らのこうした活動が、福岡に「めんたいロック」と呼ばれるロック文化を根付かせることになる。

 もう1人の父親は、シーナの実父である敏雄さん。サンハウスが解散し、シーナの実家で居候生活を送っていた鮎川に対し、「東京で勝負してこい」と敏雄さんは背中を押した。まだ幼かったシーナの娘たちの世話を敏雄さん夫妻が引き受けたことで、東京で再デビューに挑むことができた。お祭り好きで、芸能への理解のあった敏雄さん夫妻がいたからこそ、シーナ&ロケッツは誕生することになった。

 そして、3人目の父親は、鮎川誠自身だ。ライブツアーで全国を忙しく回りながらも、娘たちへの愛情を忘れなかった。ステージ上で全力で演奏する父親と母親の姿を見て、3人の娘は真っ直ぐに育った。長女の陽子はモデル・画家、次女の純子はシーナ&ロケッツのマネージャー、三女の知慧子はシーナ亡き後に2代目ヴォーカル・LUCY MiRRORとして加入する。

寺井「鮎川さんのご家族を描いたドキュメンタリーになっていますが、家族だけの物語にはなっていないと思うんです。鮎川さんは家族だけでなく、誰に対していつもフラットで、気さくに接していました。ライブに来てくれたファンはもちろん、シーナ&ロケッツを知らない人、街でたまたま出会った人とも仲良くしていました。人とコミュニケーションするのが大好きな人でした。鮎川さんにとって、ロックはいろんな人たちと、知らない人たちとつながるためのツールだったのかもしれません」

 ロックを介し、シーナ&ロケッツはより大きな家族へと広がっていった。

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