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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義16

『光る君へ』清少納言、紫式部が描かなかった疫病の流行と宮中での度重なる火事

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』、清少納言、紫式部が描かなかった疫病の流行と宮中での度重なる火事の画像1
高畑充希(写真/Getty Imagesより)

 前回(第16回)の『光る君へ』は「華の影」というタイトル通り、内裏(御所)における一条天皇(塩野瑛久さん)、藤原定子(高畑充希さん)とその取り巻きたちによる華麗なる生活が描かれる一方、平安京の庶民たちには疫病が蔓延し、内裏の建物には付け火(放火)が相次ぐという悲惨な一面も描かれました。

 一方でヒロインのまひろ(吉高由里子さん)は、かつて文字を教えていた少女からの「とととかかが帰ってこないの」というSOSに応えて「悲田院(ひでんいん)」に出かけ、自身も病に感染して倒れてしまいました。しかし、偶然視察に訪れていた道長(柄本佑さん)と当地で出会い、お姫様抱っこで自邸に連れ帰られ、介抱されるという「看病イベント」が発生していたのでさすがに驚かされました。

 清少納言(ファーストサマーウイカさん)の『枕草子』で美化されている一条天皇の治世ですが、実は疫病や火事のせいで不穏で悲惨だったというような話を今回はしたいと思います。

 ドラマの冒頭、オープニングテーマの前に「正暦四年(993年)」という文字が出ていましたが、まさにこの年、平安京を謎の疫病が襲った記録が本当にあるんですね。この年の夏頃から、特徴的な咳をする患者が平安京に溢れたそうです。ドラマの演出上、まひろは咳き込んで意識不明になっていたものの、道長の“愛の看病”のおかげで一晩にして窮地を脱していましたが、本当はそれどころではなかったようですよ。

 文献には「咳疫」などの言葉が見られ、人民が皆この病気で苦しんだといわれるほどに大流行を見せました。さらにこの年の秋には、「疱瘡(=一般的には天然痘。本当の病名には諸説あり)」が流行し、世の中は騒然とし始めたのです。

 ドラマでは道長が、長兄・道隆(井浦新さん)に疫病対策を迫るシーンが出てきましたが、道隆は「貧民がかかる病気で、我々貴族には関係ない」などと何度も言っていましたし、現代的な観点から具体的な対策をしているとはまったく見えませんでした。また、ドラマでは悲田院に病んだ庶民たちが担ぎ込まれていましたが、そこでもただ寝かせられているだけで、医療施設として機能している感じはありませんでしたね。

 史実の悲田院は8世紀、つまり奈良時代の興福寺に起源がある福祉施設で、現代でいう病院というより、孤児たちと行き場のない貧しい病人たちを匿うための場所として始まり、平安京でも10世紀くらいまでは東西の2箇所に存在したといわれています。九条大路南方、東端あたり――鴨川の近くにあったとされる「鴨河悲田」が東悲田院、九条大路南方、西端あたりにあったとされる「悲田院南沼」が西悲田院と呼ばれ、疫病が流行すると道端で行き倒れている貧困層の病人が運び込まれたようです。

 しかし、ドラマで描かれていた道長の看病が一晩中、まひろの額を冷やしてやるくらいしかできなかったように、悲田院でも具体的な効果がある医療行為が受けられたかは疑問です。上流貴族であったところで、闘病となれば医者から気休めの薬を飲まされ、ドラマの道隆のセリフにもあったように「僧侶に読経させる」くらいしかなかったのですから、自身の免疫しか頼れるものがない時代に生きるというのはかなりハードですね。

 同様に、当時の朝廷が行える具体的な疫病対策などなく、行った対策といえばドラマには出てきませんでしたが、菅原道真(故人)に「左大臣・正一位」という高い官職を与えたことくらい。「死者を出世させて、高い官職を与えて意味などあるの?」と思うでしょうが、何か悪いことが起きれば、かつて藤原氏に権力の座から引きずり降ろされ、九州・太宰府に流されたまま無念の死を遂げた菅原道真が怨霊となって平安京に悪さをしてきたと当時では考えるしかなかったのです。道真の慰霊をして「もう大丈夫だろう」と納得していたのですね。

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