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【おたぽる】

デビュー40周年!“アニソン界のプリンス”影山ヒロノブの「衝撃を受けたアーティスト」と「続けられた理由」

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──LAZYはアイドルロックバンドという形だったと思いますが、今思い返すと、どういう時代だったのでしょうか。

影山 かまやつさんは、ロックやろうぜ、という気持ちで東京に呼んでくれたんです。けれども、実際にボクたちを動かすレコード会社やプロデューサーは和製「ベイ・シティー・ローラーズ(スコットランド出身の世界的アイドルロックバンド)」をつくりたいと考えていました。

 それは、ボクらが思い描いていた形とは違うスタイルでした、でも、大阪から出てきて、とにかく成功しなきゃ始まらないということは自分たちでもわかっていた。まずは、売れることを第一に考えようということで、アイドルっぽい曲を演奏していました。

──当初から、ロックをやりたいという思いが強かったと思うのですが、そこからアニソンを歌うことになった経緯は?

影山 LAZYは、4年間の活動の後に、1980年に解散しました。その後ソロになったのですが、鳴かず飛ばずで……。レコード会社やプロダクションをたらい回しになった時期がありました。

 そんな時期もあって、ようやく落ち着いた頃に、日本コロムビアの学芸部の方が『電撃戦隊チェンジマン』の主題歌で声をかけてくれたんです。

──なぜ、影山さんに声をかけたのでしょう?

影山 これは、自分の推測なんですが、それまでのアニソン歌手というのは、ロックシンガーじゃないんですよね。やっぱり、水木一郎さんとか、ささきいさおさんなど、もっと悠々と歌うスタイルのポピュラーシンガーがアニソンを歌っていました。

 でも、80年代も中盤になるとエンターテインメントシーンは変化していて、若い人の聴く音楽はロックばかりになっていた。そこでアニソンも、ぼちぼちロックだろうという思惑もあって、声をかけてくたんだろうと思います。

 当時は、日本のアニメや特撮とかの技術が進歩して、リアルで迫力のある作品が増えていく過渡期でした。そういう作品に合うのは、スピード感に優れたロックしかないと考えていたのではないでしょうか。

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