【五所純子/ドラッグ・フェミニズム】ラッパー・なかむらみなみが抱く麻薬で壊れた母の肖像(後編)
――覚醒剤、コカイン、大麻、向精神薬……クスリに溺れる女たちを嗤うのはたやすい。だが、彼女らの声に耳を澄ませば、セックスやジェンダーをめぐる社会の歪みが見えてくる。これは、文筆家・五所純子による“女とドラッグ”のルポであり、まったく新しい女性論である。
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辻堂の美しいビーチで砂混じりの冷たい潮風を受けながらはしゃぐ、なかむらみなみ。(写真/草野庸子)
「私は薬に嫉妬してたのかもしれないです。母は依存するもののために生きるようになって、私や弟をかえりみなくなりました。もうお母さんは私たちを育てるのをやめたのかなって」
どこかで信じてた。あなたは私を守っているのだと。私13歳、あなた33歳。冬の寒い日、あなたは私と弟を連れて飲み会に出かけた。主催者は羽振りがよく、会の終わりにタクシー券をドライバーにばらまき、女性たちを帰した。私たちの乗ったタクシーは運転が荒くて、吐き気を催した私は「窓開けていいですか」と言った。冷たくあしらったドライバーにあなたは怒った。「娘が気分悪いって言ってんだろ。ちゃんとやれ」。降りる頃には、もうあなたは錯乱状態だった。「料金は先にいただいてます」と言うドライバーに、「まだ払ってねぇだろ。ナメてんのか」と後部座席からドライバーを蹴り上げた。車外に飛んでいった眼鏡を弟が追いかけ、暴れるあなたの体を私が押さえ、ドライバーは通報していた。あなたは私のために怒っているのだと思っていた。でも、あなたの怒りと私はさほど関係ないのかもしれない。そう気づいたのはいつだっただろう。
「母を連行するパトカーが川沿いに走っていくのを見送りました。事件はすぐ示談になったので母は帰ってきたけど、祖父母が回復を願って母を施設に入れました。親戚たちは厄介払いできたと内心喜んだかもしれません。
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母が施設に入れられてから、辻堂神社の奉納太鼓を叩くようになった。(写真/草野庸子)
私と弟は親戚たちと暮らしはじめました。弟はよくそこに行っていたので可愛がられましたけど、私は“ずっと典子といた娘”ということで印象が悪かったみたいです。がらっと生活が変わりました。1日の時間割が決められて、それが守れなかった翌日の朝食はかならず変な味がしました。親戚のひとりが私のごはんに洗剤を入れてたんです。その親戚は認知症で言動がおかしくなっていたんですけど、当時は誰もそれに気づいてなくて、逆に私が精神病だと疑われて、入院させられたことが数回あります。誰にも信じてもらえないのはつらかったし、統合失調症とか躁鬱病とか言われると、ほんとに病んでいく気がしましたよ」
それでも私は強かった。子どもが想像するよりも、世界にはたくさんの親がいる。まだアパート暮らしだった頃、家から遠のくあなたに代わるように、大人たちがかわるがわる家に入ってきた。ここはあなたの地元、縁もゆかりもありすぎる狭い土地。町内の人たちは壊れゆくあなたに気づいていた。放置された幼い私たちを案じていた。食事をくれる人、話し相手になってくれる人、安全を確認していく人、みんなが少しずつ私たちを育ててくれた。
最初に気づいてくれたのは、あなたと同じ走り屋だったサオリ。さすがに元レディースはドスが利いていて、叱られるときは怖かった。はじめてのブラジャーも、はじめての月経も、私はサオリにだけ打ち明けた。あなたにはもう私の体のことを知られたくなかった。サオリは自分が薬を食ってたクチだから、あなたを見捨てられなかったんだろうね。知ってる? サオリは死んだよ。私がくやしいのは、サオリの死を知らされなかったこと。「ごめんね。あたしたち典子と縁切ってたから、みなみを葬儀に呼ぶわけにいかなかったんだ」って、元レディースの人たちに言われた。あなたは付き合いで薬をはじめたのかもしれない。薬を続けるために必要になった付き合いもあったと思う。でも、薬のせいで切れてた付き合いもあった。依存症って人間関係が極端になるんだと思うよ。
親戚に厄介払いされてホームレスになった
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小学生時代、母の噂を聞いた親たちが、みなみとの付き合いを子どもに禁じた。(写真/草野庸子)
「私が生きてこれたのは夢を見つけたからです。それは町のおかげ。とくに神社。8歳のとき、同級生について行くと、太鼓の音が聞こえてきた。辻堂神社の奉納太鼓を子どもに教える教室でした。私たちはいつも神様に見守られているから、神様に失礼がないように暮らさなきゃいけない。奉納太鼓は一年一度のお祭りで神様をここにお呼びするためのもので、お囃子を奏でて、甚句を歌って、御神輿を担いで、神様に捧げる。それが感謝の示しでもあるんだ。そう神社で教わって、毎日のめり込むように太鼓を叩きました。祭りの最終日だけは喧嘩囃子といって、鳴らし方や歌い方や踊り方の決まりが外されて、自分の思うように最大限の力を尽くして表現します。私はそれが楽しくて嬉しくてしょうがなくて、死ぬまで力いっぱい表現しようと思いました。私を見てほしい。私を認めてほしい。そう願う相手が、お母さんから神様に移ったんでしょうね。私の依存は神様かも、ですね」
神社を中心とした地回りの人たちは厳格だ。その厳しさが新鮮だった。話しかけられたら返事をするということも、靴を脱いだら揃えるということも、私は知らなかった。もしかしたら私は野蛮人のように映っていたのかもしれない。言葉遣いや礼儀作法を一から教わった。小学校でも同じことを言われたはずなのに、私は聞く気になれなかった。学校は尊敬できなかったから。林間学校のとき、保険証を持ってこいと言われて、私はちゃんと持っていったのに、担任は「こんなの見たことありません」と言った。私の保険証はひとり親家庭用のピンク色で、みんなの白いやつと違ったからだろう。学校は無知だった。私を、私とあなたを、理解しようとしなかった。やがて同級生も私と喋らなくなった。あなたの噂を聞いた親たちが、私との付き合いを子どもに禁じたそうだ。あなたは怒っていた。いつも怒っていた。怒っている人は傷ついている。
「神社があったから、家の生活を我慢できてました。でも19歳のとき、尼寺に入るか、家を出るか、どちらか選べと親戚から迫られました。どこから探してきたのか、和歌山の尼寺に行けって。母の昔の交友関係のトラブルに私が巻き込まれたりしたので、私のことも厄介払いしようとしたのかも。友達の家を転々として、流れ着いたのが町田の公園にあったホームレスのコミュニティでした。若い人もいたし、音楽やってる人が多くて、居心地がよかった。その人たちが組んだイベントで私は弾き語りをして、それを見ていたkamuiさんに声をかけられたのがTENG GANG STARRの始まりでした。kamuiさんは私にラップをやるように勧めて、パソコンとかスピーカーを持ってきてくれました。
たまに神社のついでに家に寄って、お祖父ちゃんにだけ会ってました。お祖父ちゃんはずっと味方でいてくれて、『がんばるんだよ』って、こっそり手のひらに一万円札を握らせてくれたり。今は一応、家に戻ってますけど、帰ったり帰らなかったりです。
お父さんの家には中学のときに、法事で行ったことがあります。表札を見たら一也の隣に美保とあって、父が再婚したのを知りました。もう2つ名前が並んでて、子どももいるんだってわかりました。私より少し年下で、私そっくりで超かわいかったですよ。『お父さんのところに来るか』って言われたけど、行けなかったですね。『典子はたぶん早死にするよ。お前はあいつに頼らないで、自分の好きなことをやれよ』と父は言って、無責任な人だなって思いました」
依存症回復支援施設から母が娘に宛てた手紙
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最近、施設から届いた母の手紙には、夢が書かれていた。(写真/草野庸子)
あなたから手紙が届いていることは知っていた。施設に入ったあなたは面会も電話も禁じられて、でも手紙だって、施設のチェックを通さなければいけない。はじめて届いたのは入所から5年たった頃だった。あなたが書いた文字はミミズがのたうつようで判読できなかった。たぶん薬をやめれてなかったんだろうね。あなたの文字は情けなくもあったし、あなたらしく奮ってもいたし、そんなふうに感じる自分を私は笑い飛ばしたかった。文字が読めるようになってくると、会いたい、会いたい、会いたい、そればかり書かれていた。でも私はあなたの刺激剤でしかない。あなたは私に会うと叫んだり暴れたりしてしまうから、会いに行けない。手紙の書き方は難しかった。あなたを煽っても抑えてもいけなくて、とにかく前向きなことを書いてみたけど、施設の治療方針に合わなかったみたいで手紙は戻ってきた。私は書くのをやめた。
私が20歳になったとき、「成人おめでとう。いっしょにお酒が飲みたかったです」とあなたは書いてきた。勝手だなって。一緒に飲めるものなら飲みたいに決まってる。けど、あなたと私のつながりは、もうお酒じゃなくていいんじゃないかな。
「一度、家族会でお母さんに会いました。母は薬をやめて100キロ以上に太ってました。家族会は、ある程度回復してきた入所者の方たちと、その家族が集まります。家族がひとりひとり自分の話をするんですけど、ほとんどが入所者の親で、子どもは私だけだったので浮いてました。『依存してる人は、家族よりも依存しているものを優先しています。私はそれでいいと思ってます。なぜなら、私は自分がいちばん好きで、自分の夢をもっていて、そんな自分を表現して生きていくと決めたからです。お母さんにもそうしてほしいと思っています。私はお母さんを応援するので、お母さんも私を応援してください』。私がスピーチするとみんな黙りこんで、私はますます浮いちゃって。それきり家族会には行ってません。どれくらい伝わったかわかんないけど、手紙で書けなかったことをお母さんの前で言えてよかったです」
お前らがいなかったらウチはみんなみたいに遊べてたのに。あなたはいつも言ってた。その言葉は小さな私をとことん傷つけた。でも、今はちょっとわかる。私、子どもに太鼓教えるだけでも手こずってるのに、毎日毎日泣いてすがりつかれたら、振り払いたくもなると思う。それに私、拾った石を売ってしのいだりしたんだけど、ろくな食費にもならなくて、こんなんじゃ子ども食べさせられないなって。あなたは私たちのために身を削って働いて、疲れたんだよね。
あなたはいずれ帰ってくる。この家に、この町に、帰ってくる。町の人があなたを受け入れるのか、正直わかんない。私だってあなたと暮らせるか、わかんない。そのことを考えると、いつももやもやする。でも、私が蝶番になるしかないんだと思ってる。今度は私があなたの親になるのだろう。自信ないけどね。
「この前、母から手紙がきました。それが見ちがえるくらい立派な手紙なんですよ。字まちがってますけどね。夢がありました。読みます」
23才のお誕生日おめでとう。元気にしてますか? ウチは美波にすごくすごく合いたいです。美波がどんな大人になったのか。髪の毛はまだ長いのかな? 彼氏はいるのかな? とかいろいろ考えています。ラップもやってるみたいだね。おばあちゃんから聞きました。楽しいですか? 一度聞いてみたいな。忙しいと思うけど、こっちに合いに来てくれるとうれしいです。ウチはダイエットして12キロやせました。まだまだ目標体重には届かないけどがんばってます。ここを出たらウチはトラックの運転手になりたいと思ってます。そして大型免許をとって、ダンプの運ちゃんになるのがウチの夢です。美波は夢がありますか? おたがい夢に向かってがんばりましょう。お手紙のお返し待ってます。また手紙書きます。またね。
(つづく)
※なかむらみなみさんを除き、人物の名称はすべて仮名です。
(写真/草野庸子)
五所純子(ごしょ・じゅんこ)
1979年生まれ。文筆家。映画や文芸を中心に執筆。著書に『スカトロジー・フルーツ』(天然文庫)、共著に『1990年代論』(河出書房新社)、『心が疲れたときに観る映画』(立東舎)がある。
以前の連載記事は下記のリンクから読むことができます
【第一回】ダンサー・君島かれんの野良知性
【第二回】ゴミ収集員【真弓】の物語(前編)
【第三回】ゴミ収集員【真弓】の物語(後編)
【第四回】【向精神薬】をパステルに包む彼女
【第五回】【解離症】の中で得た金と薬と3人の神
【第六回】【ラッパー・なかむらみなみ】麻薬で壊れた母の肖像(前編)
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