日刊サイゾー トップ  > 慶喜はなぜ「鳥羽伏見の戦い」で敵前逃亡したのか?

渋沢栄一も激怒した、「鳥羽伏見の戦い」における徳川慶喜の敵前逃亡 その裏に慶喜流の“生存戦略”があった?

「鳥羽伏見の戦い」での旧幕軍の敗戦は必然だった

渋沢栄一も激怒した、「鳥羽伏見の戦い」における徳川慶喜の敵前逃亡 その裏に慶喜流の“生存戦略”があった?の画像2
徳川慶喜(『近世名士写真 其2』より)

 幕末における“天下分け目の戦”となった「鳥羽伏見の戦い」は、慶応4年1月3日午後3時ごろ、現在の京都府八幡市の橋本あたりで聞こえた砲声をきっかけに始まりました。しかし、戦の「将帥」……つまり最高責任者たるべき慶喜の身は、大坂城の布団の中にありました。慶喜本人の言い訳をまとめると「私は正月あたりから風邪で、体調不良で臥せっていた。私は戦には反対だった。しかし軍が言うことを聞かず、勝手に布陣したのみならず、発砲して開戦までしてしまったのだ」となります。

 仮に本当に体調不良だったところで、なぜ、「薩摩を討つべし」などとアジる文書を自ら作成しておきながら、慶喜は布団の中で平気でいられたのでしょうか。ひとつにそれは、軍に対する彼の意見が採用されず、やる気を失ってしまっていたから。さらには思考も乱れ、「戦いたい部下には勝手にやらせて、私は寝込んでいて知りませんでした~、とか言い訳すれば良いか」「もしうまいこといけばいったで、儲けものだし……」「もう知らん!」などと、半ば諦め、半ば思考停止の状態にあったのかもしれません。

 兵の数は多くても、所属する団体ごとに覇を競い合うような空気が出ている旧幕軍には統率は見られませんでした。『会津戊辰戦史』では、「鳥羽伏見の戦い」の敗戦理由について、次のように分析しています。

1. 戦の将帥(=慶喜だけでなく、上級士官たち)が無能だった
2. 各部隊が統率なく、勝手に動き、困難に直面すると命令を待たずに逃げだした
3. 新政府軍が進軍してくる京都に、大坂から進軍した旧幕軍全体が、数を頼みに迎え撃つだけの形となった。しかも戦場は街道上で、そこを大勢の人が埋め尽くしているので身動きが取れず、まともに戦えなかった
4. 「一部の旧幕兵だけでも京都に送り込み、薩摩や長州の軍を撹乱する」という作戦などはまったく実行されなかった

 とんでもない凡ミスの連続であり、これが旧幕軍の“現実”なのでした。あなたが慶喜の立場なら、これを読んでもなお、「現時点では敗戦が続いているが、態勢を立て直すことができる」などと信じられるものでしょうか?

 逆に、旧幕軍の信じられない弱さを聞くうちに、慶喜寄りであったはずの朝廷内の公卿たちですら、慶喜征伐派である薩摩や長州への疑念が薄らいでいったようです。その結果、仁和寺で法親王をしていたものの、戦の1カ月ほど前に還俗させられた23歳の仁和寺宮が、開戦翌日の1月4日に慶喜の「征討大将軍」に任命されるなどの急速な事態の変化がありました。また、これに伴って慶喜は「朝敵」認定を受けることになります。

 戦場の惨状に涙を流し、進軍を渋る仁和寺宮の背中に、「人斬り半次郎」の異名をもつ中村半次郎なる剣客が刀を突きつけ、強引に馬を進ませたというひどい逸話もあります(『史談会速記録』)。そして、そんな宮様将軍の権威付けに、急ごしらえの怪しい「錦の御旗」が掲げられたのですが、敗戦つづきの旧幕軍には想像以上の効果を発揮し、それだけでパニックに陥る部隊も出てしまいました。

 当の慶喜も朝敵認定には大きな衝撃を受けたとの記録がありますが、その翌日の1月5日、大坂城の大広間で慶喜は声をあげ、「最後の一兵になっても戦い抜こう」と、感動的な演説を行うのでした(『会津戊辰戦史』など)。しかしまさにその深夜、慶喜は夜闇に身を隠し、松平容保ら一部の部下だけを連れ、大坂城を深夜に脱出。軍艦に乗って江戸に逃げ帰ってしまったのです。

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