『鎌倉殿』同様に史実でも源範頼は「いい人」? 頼朝への“謀反”の真相とその後

文=堀江宏樹(ほりえ・ひろき)

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『鎌倉殿』同様に史実でも源範頼は「いい人」? 頼朝への“謀反”の真相とその後の画像1
義経(菅田将暉)、範頼(迫田孝也)、全成(新納慎也)ら| ドラマ公式サイトより

 第23回の『鎌倉殿の13人』では、予想どおり「曽我兄弟の仇討ち」が大きく取り上げられました。しかし、曽我兄弟の掲げていた「工藤祐経の仇討ち」は世間の目を欺くための表向きの理由に過ぎず、本当は頼朝暗殺こそを狙っていたのだというふうに見事に読み替えがなされており、これには唸ってしまいました。

 頼朝(大泉洋さん)は、いまだに心引かれている比奈(堀田真由さん)の寝所に忍び込もうと、いつものすけべ心に駆られるのですが、お目付け役の安達盛長(野添義弘さん)が「なりませぬ」と、彼の行く手を遮ります。

 そこで頼朝は、自分の言いなりになる工藤祐経(坪倉由幸さん)を替え玉として自分の寝所で寝させ、すでに休んでいると思わせることで、その隙に比奈に会いに行くことに成功します。そこに曽我五郎時致(田中俊介さん)とその一派の襲撃が重なったのです。身代わりの工藤は不運にも頼朝と勘違いされて討ち取られてしまいましたが、彼こそが曽我兄弟が世間に対して掲げた仇討ちの目標でした。ゆえに、表向きは頼朝が部下に命を狙われる不名誉な事件は起きていない(も同然)とされ、今回も「鎌倉殿」頼朝の権威はかろうじて守られることになった……というのが三谷幸喜流の「曽我兄弟の仇討ち」のあらすじです。

 北条義時(小栗旬さん)の名采配ぶりも見どころだったと思います。彼にとっては、自分の父親である時政(坂東彌十郎さん)が、曽我兄弟の仇討ちを手助けしたつもりが結果的に頼朝暗殺未遂事件に協力したかのような見え方になってしまったことがネックになるわけですが、義時は、曽我兄弟が謀反を企てたことは“なかったこと”とし、あくまで兄弟が父親の敵討ちを18年かけて完遂した「まれなる美談」として後世に語り継ぐ、などとすることで、時政に処分が及ぶ可能性を回避しました。

 その一方、鮮やかすぎる義時の采配ぶりに、頼朝が確実に疑いの目を向け始めていることが感じられましたね。たびたび危機を乗り越え、「天に守られている」とされた頼朝ですが、これまであった「天の導き」が感じられなくなったと明かし、今回は「たまたま助かっただけ」で、「次はもうない」「わしがなすべきことはもうこの世に残っていないのか」という頼朝のつぶやきは、彼の遠からぬ死を告げる“フラグ”であろうと思われます。この感じでいくと、『鎌倉殿』では頼朝は暗殺されることになりそうですが、北条家を疑いはじめた頼朝に義時が追い詰められ、生き残るために“下手人”になるという展開となるのでしょうか。

 さて、今回あらためてお話ししようと思うのは源範頼です。筆者にとって、範頼を演じている迫田孝也さんの印象は、『真田丸』での真田信繁(堺雅人さん)の従者役がいまだに強いのですが、ドラマファンの間では「視聴者に真犯人と疑われていたが、本当は違った」というキャラクターを『真犯人フラグ』(日本テレビ系)『マイファミリー』(TBS系)と2連続で演じておられる印象のほうが強いのかもしれません。史実では範頼も頼朝から謀反を強く疑われているので、奇妙な偶然とでもいうべきでしょうか。

 源範頼の名前は現在でも多くの日本史の教科書に登場しますが、義経とセットで扱われることが多く、単体としては印象が薄いと思われます。興味深いことに、『吾妻鏡』には、範頼が頼朝のもとに馳せ参じてきたときの記録は残されていません。さらに最後、彼がどうなってしまったのかという記録も抜けているのです。頼朝にとっては大切な(異母)弟のひとりなのに、かなり雑な扱いを受けている理由は謎というしかありません。

 範頼は、源義朝の第六男として、「蒲御厨(かばのみくりや、現在の静岡県浜松市)で生まれたとされています。ドラマでも一部の御家人たちから「蒲(かば)殿」と呼ばれているのはそれゆえですね。

 また、ドラマ第10回で義経(菅田将暉さん)から「そちら(の母親)は確か遊女でしたよね」と言われていましたが、母親は(東海道池田宿の)遊女だったとされています。もっとも、その典拠となるのは南北朝時代に成立の『尊卑分脈』なので、正確には不明というべきでしょうか。九条兼実の日記『玉葉』によると、父・義朝を若くして失ってしまった彼を、義勇心の強いことで知られた公卿の藤原範季(のりすえ)が猶子(≒養子)にしてくれたそうで、それゆえ元服する時に義父である範季から「範」の字をもらったと考えられます。名も知れぬ遊女が範頼の母親だったという説と、藤原範季の猶子となって育った事実を考えると、同じ頼朝の弟でも、たとえば義経などと比べれば微妙な立ち位置にあったのかもしれません。

 範頼は、治承4年(1180年)の頼朝挙兵の後、寿永元年(1182年)までに頼朝軍と合流したと考えられています。寿永2年(1183年)の「野木宮合戦」では、頼朝の親族としてではなく、頼朝配下の一武将として範頼の名前が『吾妻鏡』に初登場しているので、史実の範頼も慎み深い性格で、当初は頼朝に対し、自分が弟にあたるとは明かしていなかったのかもしれませんね。

 その後、範頼は頼朝から強い信頼を急速に得ることになります。範頼と義経が共に福原に陣取った平家を(「一ノ谷の戦い」などで)攻めたときには、義経が1万の兵を率いていたのに対し、範頼は5万以上と格段に多くの兵を任されていました。ただ、この時から義経のほうが奇襲攻撃などで目立つ存在であったことは歴史的事実です。

 義経が無断で朝廷から官位をいただくなどして頼朝との関係が悪化した時も、範頼は兄と弟の間に挟まれ、心を痛めていたようです。文治5年(1189年)、ついに奥州藤原氏に匿われている義経を討伐する大軍が鎌倉から送られるというとき、頼朝から総大将を任ずるという命令が範頼に下りましたが、それを彼は固辞したとされます。それくらい私心がない範頼は、頼朝の片腕として、義経よりもかなり長く、寵愛を受けることができていたということでしょう。(1/2 P2はこちら

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