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『鎌倉殿』はどう描く? 正室の子を差し置いて嫡男になった北条泰時の謎多き改名

頼朝からいただいた「頼時」を“返上”して「泰時」に改名

『鎌倉殿』はどう描く? 正室の子を差し置いて嫡男になった北条泰時の謎多き改名の画像2
北条泰時(坂口健太郎)|ドラマ公式サイトより

 ここで北条泰時の人生をはじめから振り返ってみましょう。泰時の幼名は金剛で、北条義時の長男にあたります。ドラマでは母親が八重ということになっていましたが、史実では義時が21歳のとき、側室の阿波局との間にもうけた子ですね。

 ドラマでは以前、金剛が安達盛長の子と喧嘩になり、義時が「どんなわけがあっても手を出してはならぬ。なぜかわかるか。お前が北条の一族だからだ。北条は他の御家人よりも立場が上。だからこそ慎み深くいなければならぬ」と教え諭したシーンがあったのを覚えておいででしょうか(第22回「義時の生きる道」)。この義時の言葉を連想させるような事件が『吾妻鏡』には記されています。

 この一件、以前にも軽く触れていますが、金剛が10歳の時のことで、御家人の多賀重行とすれ違った際、多賀が馬から降りて金剛に挨拶しなかったということがあり、これを偶然見た頼朝が多賀の“非礼”を咎めて激怒し、最終的に多賀の領地を没収してしまいました。金剛は「多賀から下馬して挨拶されなかったが、それが非礼なことだったとは考えていない」と訴えたものの、その主張は聞き入れてもらえず、むしろ「多賀を庇ってえらい」と褒められ、頼朝から刀を与えられたのだとか。

 この逸話は、北条家賛美のために創作されたものだと江戸時代には考えられていたようですが(『東鑑別注』)、後世の鎌倉幕府において泰時が幼い頃から(義時にならぶ)カリスマだったと伝えるための逸話でもあるような気がします。

 興味深いことに、この逸話から少したった頃、泰時にとって異母弟にあたる朝時(ともとき)が生まれます。朝時は、31歳の義時が、史料上は正室とされる姫の前(ドラマでは比奈)との間に授かった(義時にとっての)次男です。先に述べたように泰時の母・阿波局は側室の扱いであり、当時の身分秩序では生まれた順番ではなく、正室に男の子が生まれた場合、その子が嫡男(=跡継ぎ)になるという常識がありました。しかし、実際は側室の子だった泰時が、正室の子を差し置いて父・義時の跡を継ぐことになりました。義時と姫の前(=比奈)は、彼女の実家である比企家の没落をきっかけに離婚してしまっているので、その時、朝時も嫡男の地位を失ったという考え方もできるようですが……。

 泰時と朝時の年齢差は11歳でした。しかし、『鎌倉殿』のドラマには現時点で、義時と比奈の間に朝時が生まれている気配はなく、比奈はわが子のように泰時に接していますよね。実は『吾妻鏡』でも、側室の子である金剛=泰時の寛容さを訴える逸話を掲載しているわりに、正室の子である朝時の誕生についての記事はありません。この扱いの差は奇妙というしかありませんね。

 金剛の元服直後にも、謎めいた逸話があります。彼の元服は建久5年(1194年)2月2日、13歳の時でした。烏帽子親は源頼朝で、その名から「頼」の一文字をいただき、彼は「頼時」と名乗ったわけです。この時、頼朝の命で、三浦義村(ドラマでは山本耕史さん)の娘との婚約も成立しました。

 しかし、『吾妻鏡』によると、正治2年(1200年)2月の時点では「江間太郎頼時(※原文では江間大郎~と表記されているが誤記だと思われる)」だったのに、建仁元年(1201年)9月には「江間太郎殿泰時」と記されており、彼が頼朝からいただいた名前を返上して、わざわざ泰時に改名していたことがわかります。いつ・なぜ改名したのか、その正確なところはわかりません。ドラマ第29回では頼時から泰時へと名を改めたことを取り上げるようですが、どのように描くのか楽しみですね。改名後の建仁2年(1202年)、泰時は三浦義村の娘と正式に結婚しています。こちらは頼朝の遺命どおりになったようです。

自分に歯向かう相手すら心をひらいてしまう“優しい男”泰時

 泰時と朝時の兄弟仲については、あまり良くはなかったとされています。そんな中、朝時が何を血迷ったのか、源実朝の正室・坊門姫に仕える女性の寝室に忍び込むという大スキャンダルを起こしました。建暦2年(1212年)5月7日には、朝時は義時から勘当され、北条家ゆかりの駿河国富士郡に下向させられています。これが朝時の失脚を決定づけたと考えられるでしょう。

 承久3年(1221年)には承久の乱が勃発し、冒頭で紹介したように当時39歳の泰時は悩みに悩んだあげく、幕府軍の総大将として上洛することになります。しかし、戦場に「鳳輦」が現れることはなく、倒幕軍に圧勝した泰時は、京に無事入ることができました(ちなみにこの時、泰時の下で働く形で朝時も参戦しています)。

 倒幕軍に圧勝した泰時ですが、その後も居丈高に振る舞うことはありませんでした。乱の後、残存勢力の掃討が行われることになり、敗残兵が栂尾山(とがのおざん)に隠れているという情報を手に入れた泰時は、当地で高山寺(こうざんじ)を営む明恵上人が罪人を匿っていることを知ります。明恵上人は捕らえられ、泰時の前に連れてこられましたが、泰時は上人を自分の上座に座らせ、丁寧な言葉遣いで敵兵の行方を聞いたそうです。

 しかし上人は証言を拒否した上で「敗残兵が殺生禁止の地・栂尾山に隠れていることを許せないのであれば、私の首をはねよ」とまで言ってのけました。ところが泰時は上人の勇気に感動してしまい、泣きながら後鳥羽上皇らを自分の手で処罰せねばならない苦しみを訴え、どうすればよいかを相談しはじめたのです。明恵上人もこの泰時の謙虚さに心打たれ、「仏教のことわりに従った、私心なき政治を目指せば今後はよいこともあろう」などと彼を慰めたといいます。

 これらは明恵上人の証言にもとづく逸話ですが、その後も両者の交流は続きました。優しい泰時の言動は一見、頼りなくも思えますが、彼に反感を抱いている人物さえも懐柔してしまったことを考えると、彼にとって武器でもあったのかもしれません。

 三代鎌倉殿の実朝は承久の乱より前に暗殺され、子どももいなかったため、泰時と親交のあった公家の九条道家の子・三寅(みとら、後の頼経)が四代鎌倉殿として京から鎌倉に派遣されました。三寅が選ばれた理由として、九条家が頼朝の遠縁だった点が挙げられることが多いのですが、泰時と九条家の関係も、四代鎌倉殿の背景を考えるにあたって見過ごせない気がしますね。

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堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『隠されていた不都合な世界史』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 12:30
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