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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』謎だらけの「本能寺の変」 信長はほとんど本能寺に泊まってなかった?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

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徳川家康(松本潤)と織田信長(岡田准一)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』、第27回「安土城の決闘」に続く次回の第28回はズバリ「本能寺の変」と題されており、信長(岡田准一さん)の最期が描かれることになりそうです。

 ただ、「信長を殺す」と家臣たちに宣言し、実際にその準備も整えつつあった家康(松本潤さん)が、宿敵・信長を討伐して妻子の敵討ちをするという、第26回あたりから匂わされてきた「家康黒幕説」的な展開にはならないようですね。予告映像には、家康の信長討伐を手伝っていた茶屋四郎次郎(中村勘九郎さん)が焦った様子で「上様、信長様には……お討ち死にあそばれました!」と報告する場面もありましたから。

 次回のあらすじには〈市から、あることを聞かされ、家康は戸惑う〉とあります。予告ではお市(北川景子さん)が「あなた様は兄のたった一人の友ですもの」と家康に語りかける場面もあり、実際、家康の中にも「信長憎し」の感情だけでなく、実は兄のように慕う気持ちも強かったのであろうと思われます。

 第27回の安土城での“決闘”シーンとは、本心を見せなくなった家康と、どうしても彼の本心を知っておきたい信長が二人だけで語り合うという場面を指しているようでしたが、久しぶりに家康が信長の前で自分を「わし」、信長を「お主」とフランクに呼び、信長もそれを許していたのが印象的でしたね。「天下人」として苦悩し、「大変なのはこれからなんじゃ。戦なき世の政は、乱世を鎮めるよりはるかに困難」という信長のやつれた姿に同情してしまったのか、家康は涙を流していたようですし、次回の予告映像でも(おそらく、信長の死を聞いて)静かに落涙する場面が見られました。

 本能寺の変の直前の時期に信長が気鬱だったというような記述は『信長公記』などの史料には見られませんが、それこそドラマのように誰かに殺される悪夢を見ていたり、いつか自分は殺されるであろうという覚悟と恐怖がつきまとっている状態だったのかもしれません。前回の本コラムでお話しした、安土城の女房を皆殺しにしてしまった事件は、晩年の信長の内面で何らかの異常が生じていた表れかもしれません。

 第28回のあらすじには〈家康は、一世一代の決断を迫られる。そして迎えた夜明け、本能寺は何者かの襲撃を受け、炎に包まれ……〉ともあります。家康が何らかの理由で信長への攻撃をためらっているうちに、予告で「信長の首を取れー!」と号令をかけていた明智光秀(酒向芳さん)が多くの手勢を率いて本能寺に攻め入ってしまうという、我々がよく知る史実に沿った流れになりそうです。

 ところで、信長最期の地となった京都・本能寺とはどんな建物だったのでしょうか? 最近では「本能寺は京都における信長の定宿ではなかった」という説にも注目が集まっているようなので、今回は本能寺について検証を行ってみたいと思います。

 信長が本能寺に泊まった回数は確かに、我々が「常宿」という言葉から想像するよりかなり少ないのは事実です。信長の宿泊回数を計算した上で「本能寺は信長の定宿ではなかった」という説を唱えておられる歴史研究家の井上慶雪氏によると、「信長の約49回の上洛中、天正年間の『本能寺泊』はたったの2回である(厳密には上洛当初の元亀元年〈1570〉7月と8月の2回もあるが、これらを加えても4回にすぎない)」(2020年12月30日付「東洋経済オンライン」より)とのことです。

 一方で信長は、元亀元年(1570年)8月に本能寺に宿泊した際に気に入ってしまったのでしょうか、同年12月にはいわゆる「本能寺文書」を寺側に押し付け、本能寺を自分の京都の常宿にすると寺に宣言しています。つまり信長が本能寺を「常宿」にしたのは歴史的事実であって、間違いではないのですね。

 しかし井上氏の指摘どおり、信長は結局なぜか本能寺に宿泊することはほとんどありませんでした。井上氏の調査によると、信長が上洛した際の宿泊地は妙覚寺泊が最も多くて約20回、二条御新造(二条御所)泊が14回、相国寺泊が6回などなど。井上氏はまた、本能寺の変の際に信長が本能寺に泊まったのは、妙覚寺に嫡男・信忠が滞在していたからでは、とも指摘しています。

 ただ、本能寺を常宿と定めたにもかかわらず、信長がほとんど宿泊しなかったことには理由があるようです。在京中のイエズス会宣教師による「耶蘇会士日本通信」によると、本能寺側は(こちらも信長の宿泊希望先とされた)本圀寺同様に信長の逗留を嫌がっていたようで、宿泊させない「運動」をしていたといいます。

 なぜ信長がそこまで拒否されたかというと、彼が要求過多なモンスターカスタマーだったからです。信長が本能寺側に押し付けた「本能寺文書」の第一条には、要約すると「信長一行が常宿としている間は、余人の寄宿を停止すること」という文章があり、「余人の寄宿停止」という部分からは、僧侶など寺の関係者までが、信長宿泊時には本能寺の建物内に居ることを禁じたことがうかがえます。つまり、信長の滞在中は寺の者たちはみな他の寺に宿泊しておけ、ということで、本能寺のような多くの僧侶を抱えた寺にとってはかなり難儀な要求だったはずです。

 当時の本能寺の貫主(かんしゅ、寺のトップ)は、伏見宮家出身の日承という人物で、皇室に対しては崇敬の念が深い信長とは良好な交友関係にあったといいますが、それでも本能寺を信長一行の宿泊地とされることだけは拒絶したかったようです。信長と親しかったがゆえに、何らかの理由をつけて宿泊を拒否することができたのかもしれません。文亀元年(1501年)生まれの日承はすでに60代を超えており、戦国時代の感覚ではかなりの高齢者です。それゆえ、「信長さまのご宿泊中に他の寺に移るのはこの老いの身には一大事でして……」などとうまく断わることができたのかもしれませんね。(1/2 P2はこちら

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