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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』大坂の陣の勝敗を左右した?秀頼の「出陣」と真田信繫の提言

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』大坂の陣の勝敗を左右した?秀頼の「出陣」と真田信繫の提言の画像1
豊臣秀頼(作間龍斗)| NHK公式YouTubeより

 『どうする家康』第46回の家康(松本潤さん)は、大坂の民衆から絶大な人気を誇る豊臣家を滅ぼすという悪役に徹しているかのような振る舞いが目立ちました。自分が戦の責任をすべて負い、秀忠(森崎ウィンさん)には平和な世を残そうとの覚悟を決めているからでしょうが、当の秀忠は父親の本心を理解できておらず、大坂城の天守を大筒で攻撃することも躊躇しない家康に「こんなの戦ではない!」と猛抗議していました。

 次回・第47回「乱世の亡霊」は、〈茶々の妹・初と阿茶が話し合い、秀頼が大坂に留まることと引き換えに、城の堀を埋めることで和議が成立する〉〈豊臣を滅ぼすまで平穏は訪れないと、家康は再び大坂城に兵を進める〉というあらすじからすれば、大坂冬の陣の講和から、夏の陣の開戦あたりまでの内容となりそうです。

 第46回では武将としての豊臣秀頼(作間龍斗さん)に目立った活躍はありませんが、史実ではどうだったのでしょうか。実は、大坂冬の陣・夏の陣(慶長19~20年・1614~1615年)を通じ、秀頼は一度も出陣することはありませんでした。茶々が「秀頼は出陣させぬ」と息子を守ったからともいわれますが、徳川家の公式史である『台徳院殿御実紀』によると、秀頼は「母に守られる息子」というイメージとは正反対の勇猛な人物だったようです。それならば、なぜ秀頼の出陣が見送られ続けたのでしょうか? 残念ながらそれを説明する史料がないため推測するしかないのですが、大坂冬の陣開戦時点での秀頼には実戦の経験が皆無です。茶々は「大坂城唯一の男」と徳川方から揶揄されたほどの強硬派ではありましたが、実戦について知り尽くしてはいません。また、大野治長など上層部の面々は基本的に守旧派・穏健派だったことから、秀頼も彼らのアドバイスを受け入れざるを得ず、本来なら早期から出陣しておくべきだったのに、そのタイミングを見誤ってしまったのではないかと推測されます。

 ところが、大坂夏の陣(慶長20年・1615年)の末期において、秀頼が出陣しようとした記録が『大坂御陣覚書』という史料にはあります。内容をまとめると、真田信繁たちが家康の首を狙って捨て身の攻撃を開始した頃、秀頼も亡き父・秀吉を思わせる勇猛な鎧姿で兵を率いて大坂城外に出ようと進軍を開始したものの、城内の桜門あたりで引き返してしまったのだそうです。真田隊が作戦に失敗して敗走したという連絡が届いたことで、もはや大将の秀頼が城外に出ても無駄死にしかならないと判断したようですね。

 秀頼が最後に頼ったのが、彼の妻で、家康の孫娘にあたる千姫です。夏の陣の終盤、千姫は侍女たちと共に危険を承知で大坂城を脱出し、戦地を突っ切って茶臼山(現在の大阪市天王寺区)の家康の本陣まで赴き、「茶々さまと秀頼さまのお命だけは救ってほしい」と祖父に願い出ました。家康は回答を保留し、「お前の父上にも聞いてごらん」と秀忠に丸投げしています。そこで千姫は、岡山(現在の大阪市生野区)の秀忠の陣に向かいますが、助命嘆願を聞いた秀忠は、即座に却下したのみならず、「豊臣に嫁いだお前が自害せず、なぜここにいるのだ!」と娘を叱りつけたそうです。ドラマの秀忠は、大坂城にいる千姫(原菜乃華さん)を心配し、イギリス製の大筒という圧倒的な火力による攻撃を非難するような心優しさを持ち合わせ、「偉大なる凡庸」とも評される人物として描かれていますが、史実の秀忠は冷徹きわまりないパーソナリティの持ち主だったのです(史料によって異なるものの、秀忠は家康の死後、親族を含む30~50家ほどの大名を改易=取り潰しにしています)。秀頼と茶々の助命が聞き届けられるわけもなく、慶長20年5月7日、大坂城は落城、その翌日、秀頼と茶々も自害するという悲劇に終わりました。

 もう少し早い時点で、秀頼が城内の穏健派を押さえつけ、出陣して城外にその勇姿を見せつけていたら、歴史はかなり変わっていたかもしれません。一説に15万5000人の徳川軍に対し、78000人の豊臣軍(ドラマでは徳川軍30万、豊臣軍10万)が勝利することは難しかったにせよ、ボロ負けしないためにはどういう作戦があり得たでしょうか? 

 ドラマでは、大坂城外で多少の戦闘はしたものの、徳川との兵力差は歴然だったために、秀頼は籠城作戦を採用したように描かれていました。史実では、大野治長など上層部が最初から籠城戦を主張し、真田信繁など主戦派はむしろ少数だったようです。

 真田信繁が興味深い作戦を立案していたとする説もあります。信繁は、徳川方の大軍が大坂に到着する前に、畿内の要衝にある橋を落として徳川の進軍を阻み、奇襲を仕掛けて兵力を大きく削ることができれば勝機はあると訴えたのですが、そこまでなりふり構わぬ行いを天下の豊臣がやるわけにはいかないというのが大野治長など上層部の総意で、採用されることはありませんでした。大坂城外で一度、大きな戦を徳川方と構え、そこに秀頼が出陣してくれれば……という思いも信繁にはあったはずです。ここで徳川兵を多数討ち取ることに成功し、その現場に大将として秀頼が君臨していれば、豊臣兵たちは「兵力差など大したことではない」と信じることができたでしょうし、戦局に大きくプラスに作用したことは間違いありません。

 「戦の最初期から、味方の士気を上げていかねばならない」という戦慣れした信繁ならではの提言は、しかし先述のとおり正面から採用されず、代わりに上層部から許可されたのが「真田丸」の建設でした。(1/2 P2はこちら

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