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ジャニーズ問題から透ける「ジャーナリズム」「公益性」という言葉の空虚さ

究極のジャーナリズムとはなんだろう

 だんだん、わたしはマスメディアが自ら謳う「スクープ」という言葉にも嫌悪感を抱くようになってきた。ジャニーズ報道をもってさらに顕著になってきたマスメディアの本質を知るに連れ、スクープなどと謳って大衆の関心を引ければいいと考えている姿勢に、こちらが思うジャーナリズムが存在しないからだ。それに私は、大勢の中で立場が弱くなった人を、われが正義という顔として叩き上げるより、たった一人でも守りたいと考えてしまうのである。

 私が掲げるジャーナリズムとは、歪んだ報道に対して逆クロスを撃ち込み、世論が間違っていると思えば、それをも相手にして戦うことにある。それは本来、特別な感情ではなく、人としての当たり前の姿だったのではないか。

 弱いものイジメをしている相手に対して「ことの是非などは関係ない」「弱っているものをそれ以上いじめるな」と私は言ってきたが、現在のジャニーズ問題においては、ことの是非にも抵触している。

 重大な性被害があったのであれば、なぜ捜査当局が乗り出さないのだ。もはや事件化し、立件することが不可能だからだろう。被害を訴えている者が絶対の正義で、加害者は申し開きする言葉がまったくない絶対の悪であると、今回のケースで誰がどうやって立証できるのだ。

 ジャニー喜多川氏が他界している以上、できるわけがない。司法もそれができないと判断しているのだ。もちろん、喜多川氏を擁護するわけでも、性加害の存在を否定するわけでもない。ただし、被害者の言い分が100%正しいと断言することもできないはずだ。

 そんな複雑な問題だからこそ、冷静に客観的に、第三者的な視点を持たなければならないのがマスメディアなのに、寄ってたかってジャニーズ事務所やそこに所属するタレントたちに対して、「お前たちも共犯だ!」とばかりに責め立てることがおかしいと思うのだ。報じなければならないときに黙殺し続けて、当事者が不在となり、問題の検証をできなくなってから報じることのどこに信憑性があると言い切れるのだろう。

 仮に万が一あったとしても。私はこう言い切りたい。ジャニーズが与えてくれた影響は、ことの是非ではないと。

 私はいつだって、好きなものは好きと言える世の中でなくてはならないと思っている。文句を言う人間は、何をしていても文句を言うものだ。誰かのせいにしたいのだ。だが、そんなものに混じり合うのではなく、大事に思う人のために戦おうとするほうがよくないか。究極のジャーナリズムとは、そうした思いの奥底にあるのではないか。

 加熱する報道に踊らされるかのように、バカな言葉を使い、騒ぎ立てることしかできない記者やコメンテーターの放つ言葉に、本当の意味での公益性=人々を幸せにするための想いなどないぞ。

 それにしても、哀しくないか。突然降って沸いたような論調が異常な空気を作り、あのジャニーズがなくなってしまったのだ。そうした感性すらも理解できない人間に、人の気持ちなどわかるわけないし、真のジャーナリズムを追求することなど到底不可能である。

 だが、見てみてほしい。こんなにマスメディアがジャニーズを袋叩きにしても、ジャニーズを必死に応援する人々がいるのだ。私はそれこそが、これまでジャニーズが世の中に与え続けてきた功績だと思っている。

 そんなジャニーズという存在を、私は間違っても否定することはできない。

(文=沖田臥竜/作家)

作家。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』(サイゾー文芸部)はドラマ化もされ話題に。最新刊は『インフォーマ2 ヒット・アンド・アウェイ』(同)、『ブラザーズ』(角川春樹事務所)。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

Twitter:@pinlkiai

最終更新:2023/10/28 11:14
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