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日刊サイゾー トップ > エンタメ > お笑い  > 志村けん、失踪&ブーイングの過去

志村けんブレークの陰に……ボーヤ時代に起こした失踪事件と、「まったくウケない」下積み時代

志村けん

 5月28日放送『ファミリーヒストリー』(NHK総合)がルーツを掘り下げたのは、あの志村けん。

 1976年にヒットした「東村山音頭」でわかる通り、彼の実家は東京都東村山市にあるが、「志村家はもともと、山梨の出だったと聞いたことがある」とは志村の兄(長男)・知之さんの弁。志村の姓は、武田家(武田信玄)がいた甲府に多い名字だ。

 旧武田の武士たちが甲州を手に入れた徳川家康へ「今後、忠誠を誓います」と出した誓約書の中には志村姓の武士が多く含まれており、甲斐の国から武蔵の国に入る甲州街道上、八王子にある関門(現在の東村山の近く)を守る使命が志村たちに与えられたとのこと。

 その他、諸説さまざまあるが、彼の祖先は名のある人物であった可能性が高い。もしかしたら、武田信玄に仕えていた可能性もあるのだ。

 

■ボーヤ時代の志村が失踪した理由とは?

 東村山で300年続いているという志村家。彼の父・憲司の職は教師である。非常に厳しい父親だったが、ある日、「雲の上団五郎一座」の舞台中継をテレビで見て、珍しく声を出し笑った憲司の姿に衝撃を受ける。そして、これを契機に、友だちを笑わすことに熱中する少年になった。

 高校の卒業式直前の68年2月、なんのツテもないまま、彼はいかりや長介に弟子入りを直訴した。この時の様子については、「笑芸人」VOL.1(白夜書房)が詳しい。

「いかりやは仕事のため留守。志村は長時間、雪の舞う中を待ち続け、バンドのボーヤ(付き人)として、ドリフに携わることになる」

 志村家の三男だった彼は家族から反対されることなく、無事、ドリフのボーヤになった。

「(直訴から)1週間たった後に電話きて『明日から東北の旅へ出るから。1週間。用意してこい』と(笑)」(志村)

 そして69年10月、新番組『8時だョ!全員集合』(TBS系)が始まる。同時に、一番下っ端の見習いとして志村の修業がスタートした。ちなみに、彼の本名は「康徳」(徳川家康のように立派な人間になってほしいという願いが込められた)で、「志村けん」という芸名は父・憲司から取ったものである。

 74年に志村は正式メンバーへと昇格するが、それまでの道のりは決して順調ではなかった。まず、69年秋ごろ、志村は一度失踪してドリフの前から姿を消している。理由は諸説ある。

・あまりの修行のつらさに逃げた

・同じボーヤ仲間の井山淳とコンビを組みたいといかりやに告げたところ、許しが得られなかったため出ていった

・コメディアンとして社会勉強をしていた(志村自身が自叙伝『変なおじさん』〈新潮社〉で告白)

 バーテンダーやその他の職を転々として社会勉強した志村は1年後、加藤茶の口利きでボーヤに復帰。やがて、井山とコンビ「マックボンボン」を結成し、ドリフの地方巡業の前座に出演するようになる。

 当時のマックボンボンのネタは、ボケの井山に志村が「何を言ってるんだよ!」と顔面を蹴ってツッコむというスタイル。コント55号をより凶悪にしたコントは客席を沸かせ、72年10月からスタートした日本テレビの新番組『ぎんぎら!ボンボン!』レギュラーをゲットするにまで至った。しかし、若い彼らは舞台とテレビの違いに戸惑ってパッとせず、番組自体も同年12月に終了。結果、マックボンボンは解散し、志村はドリフのボーヤへと戻った。

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