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シャーマンもラッパーも韻を踏んで言葉が「降りてくる」 モンゴル産ヒップホップの隆盛を人類学で読み解く!

「ヒップホップの起源はモンゴル」という言葉の背景

――『モンゴリアン・ブリング』というモンゴル・ヒップホップを題材にした映画の中で、口承文芸の詩人が語った「ヒップホップはモンゴル起源だ」という言葉が本の中で紹介されていました。そう自負しておかしくないくらい現在のラップ隆盛につながる歴史がモンゴルにはあって、例えばモンゴルの遊牧民にはディスり合うバトルの伝統もあったそうですね。

島村 ええ。遊牧民は牧歌的な存在だと思われがちなんですが、決しておとなしく羊を飼っているわけではありません。遊牧社会では、近隣のライバルに対して、交渉や情報操作をすることで、いかに良い牧草地を先に獲るかが重要です。遊牧民は広い大草原を移動しながら、植物や家畜に基づいてどこが良い牧草地か見定めていく。そこから先が勝負で、「いや、あそこの草は良くないぞ」などと噂を流しながら周囲の人間たちと情報戦を始めるわけです。慣れないフィールドワーカーや観光客は「遊牧民のお父さんはお酒ばかり飲んでいる」と思うんですが、実際には酒を飲んだりゲームをしたりすることで、他者と交渉したり情報戦を繰り広げたりしている。そこで勝った者が良い牧草地を確保し、家畜を太らせて殖やしていけるわけです。決して遊牧民のお父さんは、単純に飲み歩いて遊んでいるわけではないんです。

 例えば、モンゴルのじゃんけんは指5本で言葉を言いながら出して勝敗を競うのですが、相手をけなしながら手を出します。そして負けると、馬乳酒を一杯飲まないといけない。あるいは、子どもの遊びでもやはり、韻を踏みながら相手をけなしあう遊び歌がある。遊牧社会は、口喧嘩や交渉ごとに長けた人たちの世界なんです。

 ですから、ラップ・ミュージックはアメリカのブロンクスで生まれたもの、あるいはジャマイカにルーツがあるものかもしれないけれども、並行して世界にはほかにも韻を踏みながら即興で自己表現する文化が存在していたんですね。だから、彼ら目線で「ヒップホップはモンゴル起源だ」と言い出す人がいても無理はないかなと。もちろん断っておくと、その認識がモンゴル国民に共有されているわけではありません。アメリカ由来の文化であることを彼らもよく知っています。ただ、「自分たちのヒップホップはモンゴルの文化だ」という認識を彼らは持っていると思います。

――というと?

島村 日本のポピュラー音楽では、最初に欧米からロックなどの音楽が入ってきたとき、日本の音楽的な伝統と切り離して「いかに泥くささを消して欧米に近づけていくか」を課題とするミュージシャンが少なくなかったように思います。でも、モンゴル人の場合、1992年に社会主義体制が終わってポピュラー・ミュージックがどっと入ってきたときに、欧米に憧れ欧米の音楽を受容していくベクトルと同時に、「自分たちのものにしていこう」という「モンゴル化」のベクトルも強く働いた。

 例えば、2000年代からヒップホップの中に伝統的なホーミーを導入し、「オルティン・ドー(長い歌)」と呼ばれるフリーリズムのうねるような歌唱法を採り入れたり、馬頭琴を使ったりし始めました。驚いたことに国宝級の伝統音楽の演奏家が当たり前のようにヒップホップのMVに参加しているし、偉大な詩人の書いた詩をラップや歌で歌うことも当たり前に行われてきました。

――世界のワールド・ミュージック市場を意識してエスニックな要素を採り入れているわけではないと。

島村 モンゴルは社会主義国時代には西側の文化は基本的に入ってきませんでした。そのため、80年代にパリやロンドンで始まったワールド・ミュージックのムーブメントを彼らは経験していません。むしろ、ワールド・ミュージックが下火になった頃に欧米からポピュラー音楽が入ってきた。実際、ラッパーたちが「ワールド・ミュージックのマーケットでウケるかどうか」と語るのを少なくとも私は聞いたことがありません。そうではなくて、カッコいいと思ったアメリカのラップ・ミュージックに対して「どうやったら自分たちの音楽ができるのか」と考えたときに、もともと存在していた頭韻で韻を踏む口承文芸の伝統や、民族楽器を採り入れていったのだと思います。

文学の詩とラップのリリックを区別しない

――モンゴルではいわゆる現代詩をラップしたものも普通に受け入れられているんですよね?

島村 ええ。モンゴル語では「リリック」と「ポエム」に区別がありません。詩/詞を表すのは同じ単語なんです。社会主義国家時代には現代詩を生み出そうとロシアの影響で教育現場でも詩を書く授業が生まれたけれども、そこでも韻を踏む伝統は残りました。ですから、書き言葉の表現においても、話し言葉や音楽表現でも、ずっと韻を踏む文化がありました。

 例えば、「中原中也が現代に生まれていたらロック・ミュージシャンになっていただろう」とは日本人はなかなか思わないですよね。ところが、モンゴルのラッパーたちはみな「反逆の詩人」といわれたレンチニー・チョイノムをリスペクトし、「彼が現代に生まれていたらラッパーになっていただろう」と言います。ラップに限らず、偉大な詩人の詩をポピュラー音楽の歌手が取り上げることはごく当たり前に行われている。

 ただ、近年の世界的な潮流を見てもボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、さらに将来的にはケンドリック・ラマーがノーベル文学賞を獲るかもしれないといわれていますよね。結局、近代に入ってから、特に20世紀になってから、文字で書かれたハイカルチャー(高位文化)としての「詩(ポエム)」と、サブカルチャー(下位文化)としての大衆音楽の歌の「歌詞(リリック)」を区別するようになっただけで、そのカテゴライズはフィクションだったと欧米の人たちも気づき始めているんじゃないかと思うんです。さらに言うと本来、詩と音楽は連続的なもので、日本人だって例えば平安時代に歌を詠んで恋する心を伝えるときには音楽、節回しを付けていたはずです。

 つまり、モンゴルではハイカルチャーとサブカルチャーを区別するとか、書かれた文字の詩とラップで歌われるリリックを区別するという発想があまりなく、伝統と現代が連続している。そこが面白いところです。

――むしろ、近年行われている文学観への見直しともつながると。

島村 加えて言うと、2000年代以降、特に近年では欧米の文化のほうが偉いとか、経済大国として憧れているといった視点もあまり強くないようです。むしろ「先進国」を冷静に相対化して見ています。もっと言えば、「アメリカの黒人のラップより俺たちのほうがすごいぞ」といったアフリカン・アメリカンに対するディスまで始まっている。これはアメリカに留学して黒人に差別された経験のあるモンゴル人ラッパーたちの「ふざけんなよ、黒人」という気持ちが背景にあるのでしょう。例えば、GinjinがMCITというモンゴル・ヒップホップのオリジネーターに対するオマージュ曲の中でMCITを褒め称える一方、「黒人のヒップホップなんてすごくない」といった意味のことを歌っています。

 日本に対しても冷静な目線で見ています。若手ラッパー、Choidog(チョイドク)の「Sumimasen」という曲のMVでは、日本の寿司屋でバイトして怒られている人間が描かれていくんだけれども、「すみません」と言いながらも、なんで怒られないといけないのかわからないと。

 「感謝するときは『ありがとう』でしょ。なんで『すみません』なの?」といったやり取りが描かれている。日本はかつてモンゴルに対する最大の支援国で、基本的には日本人に対して悪い印象は持っていないのですが、でもモンゴル人からすると不思議な習慣を持っているように見える部分もあるわけです。

――遊牧民の口承文芸の伝統や欧米文化との距離感が相まって、独自のものになったんですね。

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