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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『鎌倉殿』の政子は「悪女」にならない? 史実の「嫉妬の怪物」ぶりとのギャップ

頼朝の庶子たちに向かう政子の嫉妬の炎

『鎌倉殿』では名場面でも…史実の時政追放は「庶子」義時によるクーデターだった?の画像2
北条政子(小池政子)と実衣(宮澤エマ)|ドラマ公式サイトより

 出家後の貞暁の足跡は『吾妻鏡』からは消え、各寺院に残された逸話に頼るしかありません。『高野春秋』という史料によると、時期は不詳ですが、北条政子が高野山を訪れ、貞暁に面会を申し出たことがあるといいます。

 おそらくこれは、三代鎌倉殿・実朝が暗殺された後のことか、もしくはまだ20代の実朝に実子が授かる見込みはないとして、天皇家の皇子を次の鎌倉殿としてスカウトするべく政子直々に上洛したときの話ではないかと思われます。というのも、貞暁と面会した政子は「還俗し、鎌倉殿を継ぐ意思はありますか?」と尋ねたからです。

 しかし貞暁は即座に否定し、嘘ではない証しに自分の左目を小刀でえぐって見せたといいます。「いくら頼朝の子でも、自分が産んでいない男子には鎌倉殿を継がせたくはない。しかし、尼御台という自分の立場上、仕方なく貞暁に尋ねなくてはならなかった」という政子の本音を、貞暁は見事に汲み取り、これに喜んだ政子は彼の「敵」から「スポンサー」に転じ、多額の寄付をするようになりました。

 こうして貞応2年(1223年)、貞暁は源氏三代将軍の魂を供養するべく、高野山内に阿弥陀堂(寂静院)を建立できたそうです。以上は江戸時代に書かれた高野山の編年史『高野春秋』に見られる逸話ゆえ、歴史的な信憑性は薄いとされますが、政子がいかに歴史上、恐ろしい「悪女」として描かれてきたかを知る手がかりにはなるでしょう。貞暁はその後、寛喜3年(1231年)に46歳の若さで高野山にて亡くなったそうです。

 ほかにも、頼朝の庶子として側室女性から生まれたものの、おそらく政子の嫉妬によって出家せざるをえなかった能寛(のうかん)という男子がいたようです。

 能寛とは出家後の名前であり、母の名前、生年月日、本名ともに不明で、『吾妻鏡』には記述自体がありません。しかし、南北朝時代に成立した『尊卑分脈』という系図では、先述の貞暁とは別人の能寛という頼朝の庶子がいるとされます。仁和寺で出家し、高野山に移ったという経歴がまったく同じであることから、『仁和寺諸院家記』という史料では、貞暁と能寛を同一人物として見ていますが、能寛に関しては、高野山で自害したという不穏な死の伝承もあります(日本史史料研究会(編)『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』吉川弘文館)。死の理由は不明ですが、政子あるいは義時の関与を勘ぐりたくもなりますね。

 さらに、島津家の祖といわれる島津忠久にも、鎌倉から追放された頼朝の庶子とする伝説が古くから存在しています。

 頼朝が比企家の縁者である丹後局という女性(後白河天皇の側室とは別人)との間に授かった子が忠久だという話が、20世紀前半くらいまでは多くの層に信じられていたようです。島津家の伝承によると、丹後局は頼朝の子を懐妊中でしたが、政子からあまりに激しく嫉妬されるので鎌倉にはいられなくなり、臨月の身重の身体でありながら、摂津国住吉(現在の大阪市住吉区)まで逃げます。住吉の村人から旅人を泊めることは地域のルール上できないといわれ、居場所を求めて住吉明神にたどり着くのですが、境内で産気づき、大雨が降りしきる中で出産したとされており、その子が忠久というわけです。この時、多くの狐が集まって狐火を灯して母子を守ってくれたことから、島津氏は稲荷神社を氏神として祀るようになったのだとか……。それ以来、薩摩では祝い事の時に雨が降るのはむしろ吉兆であり、「島津雨」と呼んでいるそうです。

 ただ、公家・中山忠親の日記『山槐記』には成人後の島津忠久の記述が出てくるので、そこから逆算すると、忠久が頼朝の実子だったとしても、頼朝が12歳くらいの時の子ということになってしまいます。可能性はゼロというわけではないですが、その頃の頼朝は政子とまだ結婚していなければ、鎌倉にもいないので、島津家の祖・忠久が頼朝の庶子とする逸話が事実である可能性は薄いでしょうね。頼朝が征夷大将軍となって開いた武士の世を、頼朝の血を引く島津忠久の子孫が明治維新という形で終わらせた……とはいかにも歴史マニアを喜ばせる構図ですが、残念ながら夢物語というしかないようです。

 忠久の実父は、後白河法皇に仕えていた惟宗広言(これむねのひろこと)という公家だったのではないか、と今日ではいわれています。そうなると、なぜ公家の子である忠久が鎌倉幕府に出仕するようになったのかという疑問が出てきますが、おそらくは彼の母・丹後局が、頼朝の乳母の一人だった比企尼の娘だとされる女性だったことが影響したのではないでしょうか。頼朝は比企尼の家族や縁者を厚遇したので、忠久も鎌倉幕府との関係を深められたのだと考えられます。

 「比企能員の変」の後、比企家の血を引く者は幕府での地位を失います。島津忠久も同様に、かつては厚遇され、大隅、薩摩、日向という三地域の守護職を勤めていたものの、比企能員の変の後にはすべての役職を奪われることになり、しばらくは不遇の時期を過ごしました。しかし忠久は後に、薩摩国守護職をはじめ、数々の役職を与えられて政界に復帰し、それ以来、島津家の子孫たちは明治維新に至るまで、薩摩国の支配者として君臨し続けました。

 出家して山に籠もった後ですら妾の子を「敵」とした貞暁のエピソードにも代表されるように、政子の「嫉妬の怪物」ぶりを表す逸話は、信憑性の薄いものも含め、あちこちに記録されており、怒りの矛先が向けられた者への苛烈な態度は「悪女」と呼ばれても致し方ないのではないかと思います。しかし、そんな彼女をあえて悪女としては描かない『鎌倉殿』によって、今後の歴史ドラマや映画では、政子=悪女という定番の描かれ方に変化が出てくるかもしれませんね。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『隠されていた不都合な世界史』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 12:26
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