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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』晩年の榊原康政と本多忠勝が家康と「距離」を置いた理由とは

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』晩年の榊原康政と本多忠勝が家康と「距離」を置いた理由とはの画像1
本多忠勝(山田裕貴)、井伊直政(板垣李光人)、榊原康政(杉野遥亮)ら| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第43回「関ヶ原の戦い」で個人的にもっとも注目させられたのは大坂城の茶々(北川景子さん)でした。三成(中村七之助さん)をけしかける一方で、家康に「治部(三成)が勝手をして怖くてたまらないから、なんとかしてほしい」という手紙を送っていたので、てっきり家康と三成をぶつけさせ、漁夫の利を得ようというつもりなのかと思っていたのですが、関ヶ原では完全に三成の味方だったようです。

 茶々は、想定していた以上に「戦乱を求むる心」を強く持っていた三成が武将として急成長する姿を見て、彼に打倒家康の望みを託してみたくなったのかもしれません。茶々は本気で秀頼(重松理仁さん)を出陣させようとも思っていたようですが、毛利輝元(吹越満さん)をはじめとする諸将が思ったようには動いてくれず、怒りをあらわにして輝元の頬を“裏拳ビンタ”するシーンはすごかったですね。次回からは、茶々自身が「ラスボス」として家康の前に立ちはだかるさまが描かれていきそうです。

 三成の最期の描写については、ファンの間でもいろいろと賛否あったようです。大津城において、家康と三成は悲劇的な再対面を果たすのですが、もとは「戦なき世」をつくろうと励まし合った同志だったと信じていた家康は、何が三成を変えてしまったのかと彼に問いかけるものの、三成は対決姿勢を崩さず、「私は変わっておりませぬ。この私の内にも戦乱を求むる心が確かにあっただけのこと」と答え、「戦なき世などなせぬ。まやかしの夢を語るな!」と一喝してきました。三成のセリフの行間を筆者なりに読み解くと、これまでは加藤清正、福島正則といった秀吉子飼いの大名たちに押され、自分は平和を望む「文治派」の役割に回っていただけであり、武将としての闘争本能を隠さざるをえなかっただけなのだ、そしてそれを出し切って負けた以上は何の悔いもない……と言いたかったのでしょうか。ドラマの三成は他の武将たちのように「ヒーロー」になりたかったのかな……というようなことを感じてしまいました。当時は戦が主要産業のような世の中でしたしね。

 さて、『どうする家康』も残すところ5回となりました。さまざまな主要キャラが亡くなる、もしくは引退して消えていく展開が続くと思われます。次回予告では、榊原康政(杉野遥亮さん)が「もう我らの働ける世ではないかもしれんぞ」と語るセリフが聞こえましたね。その康政と槍で打ち合う本多忠勝(山田裕貴さん)が「見届けるまで死ぬな!」と泣いている場面もありました。酒井忠次(大森南朋さん)亡きあと、「徳川四天王」の残り3人も晩年を迎えています。

 ドラマ第43回では、井伊直政(板垣李光人さん)が関ヶ原の戦いで負傷し、(筆者はないだろうなあと思っていた)家康が彼の右肘を手当てしているシーンが出てきたので驚いたのですが、慶長7年(1602年)2月1日、直政は鉄砲傷がもとで亡くなっています。おそらく次回で直政は退場することでしょう。

 直政と同様に次回で退場しそうなのが、榊原康政と本多忠勝です。

 晩年の康政は、思うように領地も加増されず、政治的にも冷遇されたことに不満があったので、家康と距離を置くようになった……とよく語られますね。『東照宮御実記』も後年の記述になればなるほど、康政が登場する記事がほとんど見当たらなくなるのは事実です。しかし、一方で『御実紀』には、晩年の家康が康政をどのように思っていたかを教えてくれる興味深いエピソードがあります。

 正確な時期の記載はないものの、家康が征夷大将軍の位を秀忠に譲って、「大御所」となった頃の話でしょう。ある時、江戸からの使者に駿府で面会した家康は、武道の研究に熱心な秀忠の様子を聞き、「軍法について教わるには榊原康政が適任だ。多人数を使うことに慣れているから、康政に教えてもらいなさい」という発言をしたそうです。家康が康政を信頼している様子がうかがえますね。

 家康が64歳で秀忠に将軍位を譲ったのが慶長10年(1605年)で、その翌年から家康が隠居先として考えていた駿府城の修復工事が本格化しています。家康が駿府に(完全)移住したのは慶長12年(1607年)7月のこと。康政が上州館林(現在の群馬県)にて59歳で病死したのは、その前年の慶長11年(1606年)5月でしたから、『御実紀』の逸話のもとになるこの会話があったのは、おそらく1605年と1606年の間くらいではないかな、と思われます。

 関ヶ原の戦いの後、榊原康政は老中に就任しています。しかし、康政は政治の中枢である江戸城にはあまり近づかず、館林で多くの時間を過ごしたとされます。江戸城では、本多正信が老中でもないのに家康の最側近として活躍しており、(ドラマでは特にそのような描写は見られませんでしたが)史実の康政と正信は不仲だったとされています。康政が江戸城から距離を置いていたのは、多くの言葉を交わさずとも家康と十分な意思疎通ができている正信の様子を見聞きして、嫉妬していたからかもしれません。

 史実の康政は、ドラマで描かれる以上に軍法に長けた知将であると同時に、槍働きでも十分な成果を挙げる猛将でもありました。それゆえ、家康の参謀としての活動だけが目立つ本多正信のことを、「味噌や塩の勘定ばかりやっている腸(はらわた)の腐った者」とか「佐渡の腰抜け」と罵ったという話が江戸時代に書かれた諸書に見られます。ちなみに正信の悪口が「佐渡の腰抜け」である理由は、朝廷から正信に与えられた官位が「佐渡守」だったからです。

 晩年の家康の中では、康政は変わらず頼れる家臣だという認識だったことが、先程の『御実紀』の逸話でも示されていると考えられます。しかし康政としては、正信が自分よりも重用されている事実から、家康の家臣として第一に期待されるものが「槍働き」から「政策の立案」に変わりつつあると感じていたはずです。若き日の康政が、本多忠勝、井伊直政らとともに戦場を駆け巡ったときのような、家康との一体感は薄れていたはずですね。

 康政が館林に半隠居のようになった理由は実は謎で、幕末の『名将言行録』には「老臣権を争うは亡国の兆しなり」、つまり「若い世代に政治を任せなければならない」といって、康政が自ら決断し、距離を置いていたという説が紹介されています。確かに、「徳川四天王」である康政よりも以前に、若年の大久保忠隣、そして本多正純(本多正信の長男)がひと足先に老中に就いており、康政としては、いくら形だけ老中にしてもらったところで、もはや潮時だと考えてもおかしくはないでしょう。(1/2 P2はこちら

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