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『どうする家康』晩年の榊原康政と本多忠勝が家康と「距離」を置いた理由とは

榊原康政と本多忠勝は本多正信を目の敵にしていた?

『どうする家康』晩年の榊原康政と本多忠勝が家康と「距離」を置いた理由とはの画像2
本多正信(松山ケンイチ)、徳川秀忠(森崎ウィン)、榊原康政(杉野遥亮)| ドラマ公式サイトより

 康政が家康と距離を置くことにした理由については他にも説があり、江戸時代初期に軍学者・山鹿素行が記した『武家事紀』という史料によると、家康からの冷遇(=領地の加増を行わなかったこと)に憤っていたからだそうです。もっとも、領地に関しては関ヶ原以降も10万石で十分であると康政から申し出て、そのとおりになったというエピソードもあるので、本当のところはよくわかりません。

 康政が家康からの冷遇に憤っていたとする『武家事紀』には、こんな逸話もあります。館林の居城で康政が死の床に伏していたとき、家康からの見舞いの使者が訪れても、彼は布団から出ようともせず、「康政は腸が腐って死にますと伝えてくれ」と“塩対応”したというのです。

 これとは対照的に、康政が秀忠からの使者に対しては礼儀正しく応対したという話も書かれています。康政は秀忠の使者と鼓の音色を聞いて楽しみ、「まるで将軍家(=秀忠)と一緒にいられた気がします」と感激していたそうです。あくまで「俗伝」(言い伝え)と山鹿素行も記してはいるものの、興味深い話です。家康が秀忠に「軍法について教わるには榊原康政が適任だ」と言ったという『御実紀』の逸話も、晩年の康政は、家康より秀忠とのほうが距離が近かったという「事実」をさりげなく伝えようとしたものなのかもしれません。また、康政は関ヶ原において秀忠軍に従軍しており、前々回のコラムでも触れたように、秀忠の「大遅刻」を責める家康に事情を説明し、家康の怒りを収めたのも康政でしたから、秀忠と康政の絆は、家康との絆以上に強くなっていたように思われます。

 このように晩年の康政と家康の関係は悪化していたと伝える史料もあるのですが、一方で康政の「お膝元」にあたる館林の善導寺には、彼がわざわざ遺言して寺に預けたという家康の自画像が残されています。これは家康が水鏡に映した自分の顔を描き、康政に与えたという由来をもつ絵画で、それを康政が晩年まで大事に手元で保管し、自分の死後は、子孫ではなく寺に管理を委ねたということから、康政は亡くなる直前まで、その絵を前に家康の幸福を日夜祈念していたのではないか……と筆者には想像されてなりません。晩年は家康との間に「距離」が生じていたことは事実でしょうが、それでも康政は家康のことを大事に思っていたのではないでしょうか。

 康政が亡くなったのは、慶長11年(1606年)、5月14日のことでした。その月の5日に毛嚢炎(肌にできた小さなキズから細菌が入り込んで炎症が広がる病気)をわずらい、それが急速に悪化して亡くなってしまったとのことです。

 『どうする家康』の次回・第44回のあらすじには〈忠勝が老齢を理由に隠居を申し出る〉とありますが、本多忠勝の晩年はどうだったのでしょうか。

 忠勝と康政は同年(天文17年・1548年)の生まれで、関ヶ原の時には50を過ぎていましたから(当時の平均寿命を10歳ほど超えています)、お互いに年齢による衰えを実感せざるをえない時期だったのでしょう。史料で見る限り、康政より忠勝のほうが体調不良に悩んでいたといえるかもしれません。慶長9年(1604年)、忠勝は病気を理由に引退を申し出ており、このときは家康から慰留されました。しかし、その後も全快というわけにはいかず、慶長12年(1607年)には眼病をわずらってしまっています。武将としては致命傷でしょう。慶長15年(1610年)閏2月には、三河国田原で秀忠の大規模な巻狩に同行した記録がありますが、その8カ月後、つまり同年10月に亡くなっています。63歳でした。

 そして、晩年の忠勝にも、康政同様に、本多正信を重用する家康に不満を募らせていたとする逸話が残されています。一説に慶長15年、家康からの見舞いの使者の訪問を受けた忠勝は「このお礼に江戸へ参上致すはずですが、近ごろ、腰が抜けまして参れません」と言ったそうです(『武功聞書』など)。「腰が抜けた」という表現が、家康側近の正信を「佐渡の腰抜け」と呼んでいたという逸話にちなんだものだとすると、家康・正信への当てつけのようにも受け取れる返答でしょう。

 このように、逸話集では本多正信を目の敵にしている印象の忠勝・康政のコンビですが、家康より5歳年上(つまり忠勝・康政の2人より10歳年上)ながら壮健であった正信に対し、「現役で活躍できて羨ましい」という気持ちはあっても、「腰抜け」と揶揄するようなことを本当に言ったものだろうか?と筆者には疑問に思われます。

 江戸時代後期の歴史書『近古史談』という史料によると、死のふちにある忠勝を2人の子どもたちが見舞った際、彼は「死にたくない」と繰り返すだけだったとか。子どもたちにたしなめられても、「死にともな あら死にともな 死にともな 御恩を受けし 君をおもえば」という駄々っ子のような辞世の歌を紙に書きつけたそうです。それほどまでに忠勝が「ご恩のある家康公のために、私はまだまだ働きたかったのだ」という気持ちをあらわにしていたことを考えると、重用される本多正信への嫉妬はあっても、家康への忠義は最後まで変わらなかったのではないかと思われますね。

 家康が晩年になればなるほど、康政と同じく『御実紀』での忠勝の存在感は薄れる一方で、こちらもまた家康と忠勝の「距離」が遠くなっていたことを表しています。しかしそれでも忠勝は、そして康政は、家康のことを大事に思い続けていたのではないか……と筆者は想像しています。『どうする家康』の次回・第44回で「もう我らの働ける世ではないかもしれんぞ」とこぼす康政、そして隠居を申し出る忠勝の退き際がどのように描かれるかはわかりませんが、〈(家康が)自らの弱さに歯がゆさを感じつつも、家臣たちとの絆を深め、一体感あふれるチーム徳川をつくりあげていく〉というこのドラマではやはり家康と家臣たちとの絆を強調するのではないでしょうか。徳川四天王の残る3人、井伊直政、榊原康政、本多忠勝の退場がどのようなものになるのか、しっかりと見届けたいものですね。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『隠されていた不都合な世界史』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/11/19 11:00
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