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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』大坂の陣の勝敗を左右した?秀頼の「出陣」と真田信繫の提言

家康は大坂の陣の5年前から大坂城攻撃の準備を進めていた?

『どうする家康』大坂の陣の勝敗を左右した?秀頼の「出陣」と真田信繫の提言の画像2
徳川軍が砲撃する様子 | NHK公式YouTubeより

 ドラマでは「前田勢ら合わせて数千が討ち死にいたしました」というセリフがありましたが、真田丸の戦いにおける徳川軍の被害は甚大で、『大坂陣山口休庵端咄』という史料には、「前田隊三百騎」だけでなく、結城秀康の息子の「松平(忠直)隊四百八十騎」が真田丸で討ち取られてしまったと書かれていますね。前田隊以上に被害が大きかった松平隊についてドラマで言及がなかったのは、松平忠直が劇中に登場していないからでしょう。

 真田丸という砦には巨大な空堀が設けられ、敵にとっては最大の危険地帯でした。侵入するやいなや、砦からの一斉射撃を食らってしまうからです。大坂冬の陣の後、真田丸に苦しめられた徳川方が破却を強く要請したため、真田丸は現存せず、現在では正確な形態や場所さえも不明ですが、最近では、真田丸の跡地として最も有力なのは、現在の大阪明星中学・高校付近であろうといわれていますね。かつて真田丸の跡地だと考えられた真田三光神社付近は、逆に徳川方の陣地で、大坂城攻撃用の坑道が掘られていたといわれることもあります(とはいえ、真田三光神社から大阪明星中学・高校までは、筆者の足でもラクに歩いていける距離でしたので、さほど離れてはいません)。

 話が少々ずれましたが、真田信繁が訴えたように、味方の士気を高く保つことができれば大きな兵力差さえ覆しかねないのです。つまり、戦の勝ち負けを決めるのは味方のメンタルの状態次第といえるのですが、真田丸で徳川軍に手痛い被害を与えたといってもあまりに局地的な勝利すぎて、残念ながら豊臣軍全体の士気向上には貢献できなかったようです。

 大坂冬の陣の勝敗を決したのは、豊臣家や上層部が立てこもった天守閣への大砲攻撃、そして彼らの心理に「実は大坂城は難攻不落ではなかった」という絶望を植え付けることに家康が成功したことでしょう。『台徳院殿御実紀』の記述によると、南蛮渡来の技術で作られた「国崩し」と呼ばれる特別な5門の大砲、ほかには300門の大砲で一斉射撃を仕掛け、砲弾は約700メートル先の天守閣の淀殿の居室付近の櫓(やぐら)に直撃したそうです。

 国崩しについては、堺の鉄砲鍛冶・芝辻理右衛門が慶長14年(1609年)に徳川家から発注され、その2年後の慶長16年に完成させていたものだといわれています。つまり、ドラマの家康とは違って、史実の家康は大坂の陣開戦のはるか以前から大坂城攻撃のための作戦を練っており、この秘密兵器を使える日が来ることを楽しみに待ち望んでいたといえそうですね。晩年の家康は戦になると急に若やいだという逸話もあり、ドラマのように「戦は人間のもっとも愚劣な行い」とは考えていなかったはずです。

 家康は冬の陣の際、大坂城の対岸の備前島(寝屋川の中洲)に、かねてより準備していた大筒を構えさせました。国崩しの有効射程距離は1キロメートルはあったそうですが、備前島から大坂城までは1キロ未満の距離でした。この大砲は全長九尺(約3メートル弱)、使用される鉄の砲弾は一貫五百匁(約5.6キログラム)と巨大でしたが、砲弾は着弾しても爆発しません。射出された砲弾はそのまま建物の天井や壁を破壊し、その瓦礫で人を押し潰して殺傷するのです。

 『台徳院殿御実紀』によると、国崩しの「百千の雷の落るがごとく」の猛攻撃によって、居室を狙われた淀殿(茶々)自身は無事だったものの、女房たち7~8人が即死し、泣き叫ぶ女童(少女の召使い)たちを見て心が折れた淀殿は、秀頼に和議を進言しました。大野治長たちも説得に加わりましたが、しかし秀頼はなかなか承服しません。そこに後藤又兵衛が、「本来、籠城戦とは、味方が到着するまでの時間稼ぎです。しかし兵の主力を城内に匿っている大坂城に、外からの味方(後詰め)はやってきません。後詰めなき長籠城を続けることなどできません」と理詰めで説得し、さらに、どうせ家康はもうすぐ死ぬだろうからその後に形勢を立て直せばよい、徳川からは和睦を求める使者(阿茶局)も来ているとまで伝えて、ようやく秀頼が折れたそうです。

 実際のところ、秀頼らが籠城を続けても、国崩しの攻撃によって大坂城ごと壊滅しかねない状況でした。砲弾直撃の恐怖によって和睦したと書き残すことを恥だと考えたのか、豊臣方の史料には大砲についての記述はないそうですが、現代の実証実験によって、備前島から大坂城を砲撃できたとする『御実紀』の記述に誤りはないと考えられています。

 前回もお話ししたとおり、家康の意を受けた阿茶局が徳川の代表として、豊臣方の代表の常高院(茶々の妹・お初)と協議したことで講和が成立しますが、大坂城はその講和の条件として外堀が埋められてしまいました。慶長19年12月から翌年1月にかけての工事だったそうですが、その中で家康は外堀=惣堀の記述を「すべての堀」とこじつけて、内堀も埋め、二の丸、三の丸といった城郭まで破壊させたとよく語られています(『大坂御陣覚書』など)。しかし、細川忠利などの当時の書状によると、もともとの講和条件が内堀まで埋めることだった、もしくは講和後の話し合いの中で、さらなる条件が徳川方から課された(?)とも考えられているようです。

 いずれにせよ、当時の常識として城は堀で守られるものですから、外堀だけでなく内堀まで失ってしまった大坂城は裸同然です。秀頼は、外堀を復旧させようと動き始めるのですが、そうした動きを察した家康は次の戦をすぐに仕掛けることにします。世にいう大坂夏の陣ですね。その悲惨な結果は先述したとおりで、豊臣家の命運はここに尽き果ててしまったのでした。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『隠されていた不都合な世界史』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/12/10 11:00
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