日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 宮藤官九郎作品の現在位置
更科修一郎『テレビくん千年王国』第3回

『俺の家の話』と宮藤官九郎作品の現在位置─野木亜紀子に引きずられるドラマ評と失われた“暴力性”

TBSの「王道」ホームドラマとは一体なにか?

『俺の家の話』と宮藤官九郎作品の現在位置──野木亜紀子に引きずられるドラマ評と失われた暴力性の画像2
『渡る世間は鬼ばかり』(Paraviより)

 往年の野島が好んで描いていた悪趣味で残酷で破滅的な「若さ」が、テレビドラマというジャンルにそぐわなくなっているのは事実だ。

 今、あんなものを描いたら、間違いなくネットで大炎上なので、野島の最新作はテレビドラマではなく、テレビアニメの『ワンダーエッグ・プライオリティ』(21)だし、それほど話題にもなっていない。個人的には興味深い作品だが。

 しかし、『俺の家の話』が数あるホームドラマの中でも、かなり良識的な立ち位置に落ち着いたことは、本当に狙い通りだったのだろうか?

 良識的と「王道」は同義語で良いのだろうか?

 そもそも、長瀬智也と宮藤官九郎の組み合わせで『池袋ウエストゲートパーク』と『タイガー&ドラゴン』が成功したのは、長瀬演じる主人公のキャラクター造形がどちらも、初期『男はつらいよ』の車寅次郎のように、気のいい男だがどう見てもアウトローで、衝動的な暴力性を抱え込んでいることにあった。そんな男が地域コミュニティのために奔走したり、疑似家族の中で居場所を探して七転八倒する中で、ドラマが動いていた。

 いや、『俺の家の話』の「蕩児の帰還」から家長を継ぐために奮闘する長男、というキャラクター造型も悪くはないのだ。

 元ネタは『カラマーゾフの兄弟』ではないか、という説は、宮藤本人が週刊文春の連載コラムで否定していたが、現在の長瀬智也(実質的な引退興行)と西田敏行(満身創痍)の状況から考えれば、老いても傲慢な父親と暴力で生きてきた息子の関係からドラマを作り上げていくのは極めて自然な流れで、老人介護を通して「家族」を描くホームドラマになったのも当然の選択だった。

 現在の西田に『寺内貫太郎一家』(74)の小林亜星のような暴力的家長を演じさせることはできないのだから。

 実際、初期プロットも介護のつらさをプロレスの試合で晴らす、という構図だったようだ。

 『タイガー&ドラゴン』が『淋しいのはお前だけじゃない』の本歌取りなら、『俺の家の話』の初期プロットは『淋しいのはお前だけじゃない』の実質的前作にあたる『港町純情シネマ』(80)の本歌取りと言えるかも知れない。これも家出して漁師になっていた西田敏行が「蕩児の帰還」で家業の映画館を継ぐ羽目になり、古今東西の名画のヒーローやスターに自身の境遇を仮託したり、現実逃避したりする喜劇だった。

 ところが、出来上がったドラマでは、どういうわけか、長瀬の暴力性まで過剰に抑えられていく。

 引退したはずが引退しきれなかったプロレスラー、という形で肉体は肥大しているのに、抱え込んだ暴力性を持て余し、内省的なモノローグを繰り返す今回のキャラクター造形は、巷では評価されているが、喜劇としての楽しさには必ずしもつながらなかったように思う。

 たとえば、『男はつらいよ』は80年代に入ると、車寅次郎を演じる渥美清の身体的な衰えを補うために、沢田研二や長渕剛のような「暴力性を秘めた若者」をゲストに招き、車寅次郎が「(自身は成功した試しがないのに)恋愛の師匠」となることで喜劇としての枠組みを維持していたが、やがて諦めたのか、暴力性皆無な吉岡秀隆と後藤久美子の煮え切らない関係が物語の中心となり、緊張感も失われていく。

 もともと、任侠映画の登場人物が松竹大船調ホームドラマの世界に紛れ込むことで起きる騒動を描く、パロディ的な喜劇としてヒットしたのだが。

 プロデューサーの磯山晶は、パロディ的な喜劇で成功を収め、連続テレビ小説『あまちゃん』も大河ドラマ『いだてん』も書いてしまった宮藤官九郎に次のステップとして、橋田壽賀子のような「王道」のホームドラマを書かせよう、と考えたのだろう。

 だが、『俺の家の話』は、石井ふく子と橋田壽賀子が作り上げた、TBSらしい「王道」ホームドラマにはなれなかったし、ならなかった。

 最近もBS12で『ムー』(77)や『寺内貫太郎一家』を再放送していたが、それらのプロデューサー久世光彦は『8時だョ!全員集合』『ザ・ベストテン』など、同時代のバラエティ番組を取り込み、「王道」ホームドラマのパロディのようなメタ・ホームドラマを作っていた。一方で、前述の『男はつらいよ』の構造を使い、『恋子の毎日』(86)『キツイ奴ら』(89)といったアウトロー喜劇も作っている。

 TBS系での宮藤官九郎脚本作品は前述の『淋しいのはお前だけじゃない』も含め、大山勝美が制作・プロデューサーとして関わった作品群【※03】の影響下にあるが、ホームドラマの文脈に置くとしたら、石井ふく子ではなく久世光彦の側になるはずだ。しかし、磯山は「王道」を狙った。

 ところが、「王道」の石井ふく子は、ホームドラマの世界に『男はつらいよ』どころか、『仁義なき戦い』のえげつない権謀術数を持ち込み、『渡る世間は鬼ばかり』(90~)という暴力の金字塔を打ち立てた。泉ピン子は菅原文太、赤木春恵は金子信雄で、日常のありとあらゆる出来事が憎悪や策謀と地続きになっている。直接的な暴力は皆無だが、一言一言のやりとりが異様な緊張感に満ちている。

 こんな狂ったホームドラマ、石井ふく子と橋田壽賀子の最凶タッグ以外、誰が作れるというのだ。TBSで「王道」ホームドラマを作るということは、「家族」という最小単位の共同体が終わりなき戦いを繰り広げる「フィルム・ノワール」を撮るということなのだ。

【※03/市川森一脚本の『港町純情シネマ』『淋しいのはお前だけじゃない』、山田太一脚本の『岸辺のアルバム』(77)『想い出づくり。』(81)『ふぞろいの林檎たち』(83)、久世光彦プロデューサーの『ムー』など。】

 それはそれとして、時流に合わせて長瀬の暴力性を抑えることを前提とするならば、『俺の家の話』にこそ、暴力を体現していた主人公が社会化され、去勢されていく暴力性を補う、アクの強い副主人公が必要だったのかも知れない。

 それこそ、『タイガー&ドラゴン』における岡田准一のような鉄火肌なキャラクターが。

 岡田の相方「チビT」だった桐谷健太が、『俺の家の話』では岡田のような役割を担っているが、長瀬と張り合うにはキャラクター造形が実直で素直すぎたかも知れない。【※04】

【※04/『タイガー&ドラゴン』で第43回ギャラクシー賞大賞を受賞しているが、宮藤官九郎が現在のように一般層にも知られるようになったのは、2008年の『流星の絆』、2013年の『あまちゃん』以降の話で、それ以前はマニア向けの脚本家とされていた。『タイガー&ドラゴン』も落語を扱ったことで視聴年齢層は一気に広がったが、そのために(特に終盤の展開で)暴力性の過剰さを指摘されていた。】

 暴力性が後退した分、泣きが前面に出てくるようになったこともまた、『男はつらいよ』と同じ流れを辿っているが、主人公も含め、暴力性を抱え込んだキャラクターが減ると同時に、彼らと紙一重の「救いようのない悪人」も少なくなっている。

 『池袋ウエストゲートパーク』だと羽賀研二の「ストラングラー」、ブラザー・コーンの「蓮沼」、『木更津キャッツアイ』だとピエール瀧が演じた「シガニー小池」が「救いようのない悪人」枠のキャラクターだが、後に全員逮捕されていることを考えると「当て書きだったのか?」と錯覚してしまうほど不気味な存在だったし、これらの悪人たちと紙一重であることが、主人公たちの危うさと喜劇的善性を保証していた。【※05】

【※05/最近だと『いだてん』で浅野忠信が演じた「川島正次郎」が「救いようのない悪人」枠に該当するが、川島は実在の人物なので「遺族に苦情を言われなかったのか?」と、これはこれで心配になった。もっとも、浅野忠信も18年に父親が逮捕されているので、この配役は逆に狙っていたのかも知れないが。本人が逮捕されていたのでは、シャレにもならないので。】

 念のため書いておくが、テレビドラマとしての『俺の家の話』のクオリティは極めて高い。構造的な問題で傑作にはあと一歩足りなかった、というだけで、かつての「王道」ホームドラマを現代的に再現する、という制作側の狙いも達成されている。『渡る世間は鬼ばかり』が異様すぎるだけで、それ以前の「王道」ホームドラマ基準は満たしているのだ。

 一方で、「野木亜紀子という模範解答」と「橋田壽賀子という金字塔」の板挟みになるTBS系ドラマの特殊な事情も相まって、テレビドラマ愛好者のマニアが安心して褒められるテレビドラマという、微妙な立ち位置になっている。『いだてん』は叩かれ過ぎたが、『俺の家の話』は褒められ過ぎだ。

 長瀬智也の引退興行(?)で下手を打てない事情もあったのかもしれないが、「間違ったダメ人間たちを眺める」ことの滑稽さに安定感がありすぎて、かえって予定調和的に見えてしまう難しさも感じた。出世作の『池袋ウエストゲートパーク』から21年、宮藤官九郎のトリッキーな人間描写にこちらが勝手に慣れてしまっただけなのかもしれないが、極端に暴力性を抑えようと意識したことで、その印象が強くなったのは事実だ。

 もっとも、磯山晶は前クール、同じくTBS系の金曜ドラマ枠で、『俺の家の話』とは正反対な邪悪な母親たちの不倫ドラマ『恋する母たち』(20)を、大石静とのタッグで作っている。

 同枠2クール連投で正反対の作品を作ったことで、プロデューサー視点からのバランスは取れているのだろう。「間違ったダメ人間たちを眺める」という観点から、柴門ふみの原作マンガとは違うオチを作り、より面白い正解を模索したことも含めて。

更科修一郎(コラムニスト)

コラムニスト。90年代から編集者、批評家として活動。2009年、『批評のジェノサイズ』(共著/サイゾー)刊行後、休業。15年、コラムニストとして活動再開。『月刊サイゾー』『ZAITEN』などで連載中。

さらしなしゅういちろう

最終更新:2021/03/31 18:01
12
ページ上部へ戻る

配給映画

トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • twitter
  • feed
特集

【4月開始の春ドラマ】放送日、視聴率・裏事情・忖度なしレビュー!

月9、日曜劇場、木曜劇場…スタート日一覧、最新情報公開中!
写真
インタビュー

『マツコの知らない世界』出演裏話

1月23日放送の『マツコの知らない世界』(T...…
写真
人気連載

『24時間テレビ』強行放送の日テレに反省の色ナシ

「愛は地球を救う」のキャッチフレーズで197...…
写真
イチオシ記事

バナナマン・設楽が語った「売れ方」の話

 ウエストランド・井口浩之ととろサーモン・久保田かずのぶというお笑い界きっての毒舌芸人2人によるトーク番組『耳の穴かっぽじって聞け!』(テレビ朝日...…
写真