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渋沢栄一の“放蕩息子”篤二――異母弟が「常識円満」の嫡男を羨んだワケ

腹違いの弟は篤二を「常識円満、ユーモラスで粋」と評価したが…

渋沢栄一の“放蕩息子”篤二――異母弟が「常識円満」の嫡男を羨んだワケの画像2
吉沢亮演じる渋沢栄一と大島優子演じる渋沢兼子(ドラマ公式Twitterより)

 篤二は渋沢に愛されて育ちました。少なくとも周囲にはそう見えていたと思います。渋沢の愛情は、篤二の教育に熱心だったことにも表れていましたが……篤二がそんな父の姿に何を思っていたかはわかりません。

 学習院を経て、彼は熊本の第五高等中学校(=熊本第五高等学校)に進学しましたが、この頃には父親譲りの性的早熟さを発揮し、芸者遊びを覚えてしまいます。これが問題となり、表向きは病気ということで熊本の学校を中退し、渋沢の故郷・血洗島で謹慎処分を受けた篤二はその後、当初のように帝国大学進学を目指すこともなく、家庭教師による個人授業を受けただけで、勉学から離れてしまいます。教育熱心だった渋沢としては、悔しい結果だったでしょう。

 そんな篤二ですが、公卿の橋本家(あの和宮の実母の生家になります)のお嬢様・敦子と結婚できることになりました。篤二22歳、敦子16歳の華やかな門出でした。二人の間には子どもが3人も生まれましたが、芸者のような「粋筋」の女性を好む篤二は、伯爵家のご令嬢とは根本的にソリが合わなかったようですね。

 渋沢と兼子の間に生まれた四男・秀雄の目には、篤二は「常識円満で社交的」かつ「ユーモラスでイキ(粋)」な人物でありました。「義太夫(浄瑠璃)が上手で素人離れ」している趣味人とも映りました(渋沢秀雄『父 渋沢栄一』実業之日本社)。

 しかし、渋沢本家の多くの人々が見た篤二とは「新橋の芸妓Tと深くなって家に帰らない」、ただの放蕩息子にすぎなかったようです。揚げ句の果てに篤二は妻の敦子とは離縁し、「美人で評判のしたたか者」の芸者Tこと、「玉蝶」という源氏名の女性を本妻にしたいと言い出します。これが引き金となって1912年(明治45年)1月、篤二の廃嫡は親族会議である「渋沢同族会」の決定事項となりました。要するに、篤二は渋沢家の跡取りではなくなったのです。

 現代人の目には、篤二以上に女好きで、多くの非嫡出児を持っていた栄一が、なぜ篤二にここまで強硬な態度を取れたのか、と訝しく見えるかもしれません。栄一の主張を筆者なりにまとめると、その理由は次のようになります。

「確かに私には多くの妾がいるが、妾を本妻の座に据えようとするなどの不法は一度もしていない」

 渋沢は妾を「友人」と称していました。友人とは、これまた便利な言葉を使うものです。当時の渋沢家の中で栄一は「大人(たいじん)」、つまり「立派な人」という意味の漢語で呼ばれるのが常でした。本来ならば名実ともに「大人」たるべき渋沢が、自分の「友人」たちのことで妻・兼子の頭痛の種を作っていたのには苦笑してしまいますが……。

 廃嫡後の篤二は、三田・綱町(現在の東京都港区)にあったお屋敷での妻子たちとの暮らしを捨て、例の芸者Tこと玉蝶と「下町」の家で同棲しはじめました。敦子も、三人の子どもを連れて綱町の屋敷を出ていきました。数年にわたって渋沢家と縁を切り、小さな借家を転々としつつ、貧しい生活を送ることになります。

 夫を廃嫡した渋沢家にも、実家の橋本伯爵家にも頼ろうとしなかったのは、一人の女性としての意地とプライドがあったからでしょう。既婚者の篤二を廃嫡するということは、同時に妻の敦子も渋沢家から切り捨てられたも同然だからです。敦子は“被害者”なのに、篤二をコントロールできなかった罪を渋沢本家からかぶせられたような気になったのかもしれませんね。渋沢本家の援助など受けたくないと思っても当然です。

 ところで、『父 渋沢栄一』の著者・渋沢秀雄は、20歳以上も年上の異母兄・篤二についておおむね好意的に書いてはいるものの、二人の間には微妙な距離があったようです。例の廃嫡事件の頃、下町の小さな家で暮らし始めた兄が心配だったのでしょう、秀雄は篤二と特に「ウマが合っていた」自分の兄・武之助(篤二にとっては異母弟)と共に篤二の家を訪ねたそうですが、会ってはもらえなかったと『父 渋沢栄一』に記しているのです。筆者としてはこの部分が気になりました。

 フランスの文豪デュマ・フィスの小説『椿姫』には高級娼婦に入れあげた末に廃嫡される貴族の若様が登場するのですが、文学少年だった秀雄は当時、この『椿姫』のワンシーンと、芸者妻に傾倒する兄・篤二の姿を重ね合わせていたのだそうです。しかし篤二は、母違いの弟・秀雄の眼差しに好奇の色が滲んでいるのを敏感に察知していたのかもしれません。このような逸話ひとつからも、普段はいくら仲良く見せてはいても、母違いの兄弟同士の微妙な距離が感じられる気がするのです。

 篤二の廃嫡が撤回されることはありませんでしたが、彼と敦子の間に生まれた敬三(栄一にとっては孫)が後に渋沢家の中心人物となっていきます。また、篤二も渋沢本家から手厚い支援を受けられるようになりました。

 渋沢秀雄によると、後年の篤二は本家から贈られた「立派な家屋敷」に暮らし、「月々の仕送り」の援助を受けながら、「セッターの優良種」といった血統書つきの犬を数頭飼い、例の元・芸者の女性と「安穏に暮らしていた」そうです。実業家として特に大きな野心などない秀雄は「廃嫡ほどいいものはない」と感じ、「父の事業や家督の相続から解放され」た篤二が羨ましかったとか……。

 1922年(大正11年)、篤二は父や親族と和解し、親族企業「澁澤倉庫」に専務取締役として“復帰”。その10年後に亡くなるまで、経営陣として尽力しました。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『隠されていた不都合な世界史』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 11:39
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