『どうする家康』小牧長久手における榊原康政、井伊直政、本多忠勝ら忠臣の活躍
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第31回は、小牧・長久手の戦いで秀吉(ムロツヨシさん)と家康(松本潤さん)が本格的に激突するに至るまでの過程を見せる内容でした。織田信雄(浜野謙太さん)を擁して立ち上がる決断をする前には、家康が若手の家臣たちのもとを訪ねる場面もありましたが、この第31回は榊原康政(杉野遥亮さん)の出番がいつになく多く感じられ、その描かれ方にも興味を惹かれました。かつてはコミカルなキャラだった印象でしたが、最近は表情も引き締まり、若き重鎮という空気を出すようになってきたからです。第31回でも、軍師として本多正信(松山ケンイチさん)が「岡崎あたりまで引いて籠城するのが得策」と提案した一方、康政は防御拠点として小牧山城の増改築を立案し、こちらが採用されていましたね。
そんな康政は、次回・第32回「小牧長久手の激闘」でさらに目立った活躍を見せることになりそうです。あらすじに〈康政は秀吉の悪口を書き連ねた立て札をばらまいて秀吉を揺さぶる一方で、城の周辺に謎の堀をつくり始める〉とありますが、史実の康政も「秀吉の暴悪を憎む者は、わが義軍に合力し、かの逆賊を共に討とうではないか(要訳)」という檄文を書いて諸国の武将にばらまいたそうで、秀吉を激怒させました。
秀吉が康政の首に多額の懸賞金をかける逸話もドラマに登場するかもしれません。『常山紀談』によれば、秀吉は、康政の首を取った者に十万石の地を与えるとのお触れを出したとあるのです。しかし、小牧・長久手の戦いの和議が成立した後は、秀吉は康政への態度を180度転換し、家康に対する康政の忠節を褒めたたえたうえに、朝廷との間を取り持って「従五位下・式部大輔」の官位などが康政に与えられるよう手配しました。敵の秀吉ですら、康政の能力を高く評価していたことがうかがえます。第31回では康政が自分のことを「家柄のよからぬ武家の次男坊」と話していましたが、かつては本当にそういう立ち位置だった康政が、一度は首を狙われた秀吉からの引き立てにより、徳川家臣団の中でも名実ともに重鎮になっていったというのは興味深いですね。
しかし、小牧山城の戦いにおける康政の一番の活躍といえば、やはり彼が作らせた「謎の堀」が、戦の勝敗を決めることになったことだと思われます。小牧山城は永禄6年(1563年)に織田信長が築かせた城で、数々の堀、城郭、曲輪(くるわ)に守られた堅牢な城として知られました。しかし、完成から4年後、信長は岐阜城に拠点を移したので、実戦で使われることのないままその後は放置されていたのです。ドラマでも「古くて使いものにならんのでは?」と言われていましたね。家康はこの城に入り、一説に8万とも10万ともいわれる秀吉の大軍を迎え撃つべく、そこに本陣を置くことにしました。
対する秀吉は、第31回の「紀行」にも登場した犬山城に入るわけですが、その南方に位置する小牧山城までわずか1里半(約5.85キロ)で、徳川・織田連合軍が1.5万、多くても数万程度しか兵力がないこともあり、秀吉の陣取りは家康にプレッシャーをかける意図があったと推測されます。
しかし榊原康政は、小牧山城の周辺にさらに大規模な土塁や堀を短期間(ドラマでは「わずか5日」)のうちに築かせ、その早業に驚いた秀吉方の池田恒興(いけだ・つねおき)や森長可(もり・ながよし)らは無謀な攻撃に打って出てくるのですが、すぐさま討伐され、敗走しました。
後がない池田恒興は、天正12年(1584年) 4月6日、小牧山城のはるか背後にある岡崎城の攻略を秀吉に献策します。徳川のはるか後方にまわりこんで、三河地方に侵入、後方から徳川を脅かすというスケールが大きすぎる策で、秀吉は難色を示しましたが、恒興は秀吉を根負けさせて首を縦に振らせ、「中入り」と呼ばれるこの作戦は実行に移されました。
秀吉は、池田恒興、森長可、堀秀政、秀吉の甥にあたる羽柴秀次らに合計2万の兵をつけ、三河に向かわせました。しかしこの動きは忍びの者たちを通じて家康の耳に入り、家康は4月8日、夜半ひそかに小牧山城から井伊直政と出立しています。家康軍は、旧武田軍を率いる直政を先鋒とした合計で4500ほどの兵で、敵軍の進路上にある小幡城にひと足先に向かい、そこで秀吉軍の別働隊を迎え討つ作戦を取ったのです。(1/2 P2はこちら)
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