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マインドフルネスやアニメ聖地巡礼は“宗教”か? 寺社も集客を狙うスピリチュアル市場のサバイバル

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写真はイメージです。(Getty Imagesより)

 現代社会においては宗教も市場競争にさらされ、人々が自分にふさわしい考えや実践をマーケットから選択する――。そこには信徒や宗教に関心ある人々だけがアクセスする狭義の「宗教マーケット」と、自己啓発やマインドフルネス、パワースポットや世界遺産への観光なども含めた広義・広域の「スピリチュアル・マーケット」がある。

 こうした枠組みを提示し、スピリチュアル・マーケットについてさまざまな観点から考察した論集『現代宗教とスピリチュアル・マーケット』(弘文堂)が8月に出版された。同書の編者である宗教社会学者の山中弘氏に、市場から見た、広い意味での現代宗教のありようについて訊いた。

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山中弘編『現代宗教とスピリチュアル・マーケット』(弘文堂)

自己啓発は宗教の独占物だった“技術”を奪い取った

――『現代宗教とスピリチュアル・マーケット』は、狭く深い「宗教マーケット」と広く浅い「スピリチュアル・マーケット」があり、しかし完全に分離しているわけではなく、後者で満足できない本物志向の人向けに前者へ誘導する商品もまた用意されている、といった枠組みの提示からして非常に面白かったです。

山中 今までは学者にしろ宗教界にしろ、狭い意味での宗教は扱っていても、広いほうのスピリチュアル・マーケットに関しては「真面目に扱わなくていい」と思ってきたし、逆に広い側に属する人たちは「我々は宗教じゃない」と言うことが多かった。

 もともと、宗教のマーケットは狭かったわけです。特に日本社会の中では、ヨーロッパやアメリカに比べると周辺的なものとして存在していた。しかし、90年代以降になると、当人たちが宗教とは思っていないけれども、かつて宗教が扱ってきたメディテーション(瞑想)をはじめとする実践や宗教的な観念が人気を集めている。それが、宗教社会学の研究対象として興味深い。

――1990年代に起こった一連のオウム真理教事件で日本人の宗教アレルギーが広がったとよくいわれますが、その後のパワースポット・ブームなどを見ても、広義のスピリチュアル・マーケットは決して縮んではいないと。

山中 チベット仏教のようにミステリアスでエソテリック(秘教的)な宗教に対する関心は、60~70年代からカウンター・カルチャーが展開する中でキリスト教に替わるオルタナティブとして欧米で高まりました。その流れが日本にも入ってきて、ユリ・ゲラーのような超能力への関心とエソテリックな宗教志向が合体し、オウム的な世界ができた。

 しかし、彼らが地下鉄サリン事件などを引き起こした結果、密教的なグルを中心としたものは人気を失います。とはいえ、日々の労働から受けるストレスや環境問題といった近代文明の負の側面に対するオルタナティブが必要だという意識がなくなったわけではない。ですから、オウム的なグルを中心とする閉ざされた形ではなくて、オープンで危なくないものとして健康ブームやパワースポット・ブームが起こり、あるいは瞑想やヨガなどへの注目が広がっていった。そうやってカウンター・カルチャーからニューエイジへ、ニューエイジからスピリチュアリティへと動いてきたわけです。

――自己啓発もスピリチュアル・マーケットを形成するものとして扱われていますが、なぜ一緒にまとめられるとお考えなのでしょうか?

山中 宗教をどう定義するか。大きく言って、実体的な定義と機能的な定義があります。実体的な定義とは「宗教とはこうであり、こうではない」というもの。超越的な存在である神や仏を扱うものを宗教と呼び、それ以外は呼ばないというのが実体的な定義の典型です。

 それに対して、機能的定義もある。かつて宗教が果たしていた、人々に心理的安定や生きる目的を与え、救済するといった「機能」を与えているものを宗教的なものとして捉えましょう、と。

 自己啓発は「心の問題をどう扱うか」という技術です。それは、心理学が登場する以前までは宗教の独占物でしたが、宗教と心理学が分離し、後者は学問で科学であり、前者は違うということになった。しかし、心理学を日常に応用した自己啓発的な試みは、宗教が担っていたものを奪い取った――つまり機能的に見れば、かつての宗教の役割を担っているといえます。

 現代の宗教は実体的な定義、または教団ベースで考えると、小さくなってきているように見える。しかし、機能的な定義をもとに、かつて宗教が受け持って持っていた技法が心理学などと結合しながら応用され、さまざまなセクターが担っていると見たほうが、現代をとらえる上では射程が広く、また研究としても面白いのではないかというのが私の考えです。

――本に収録されている安田慎さん(高崎経済大学地域政策部准教授)の「ウスターズたちのスピリチュアル・マーケット」では、インドネシアの巡礼ビジネスにおける宗教ガイド「ウスターズ」が、必ずしもイスラームの高等教育を修めていないにもかかわらず、社会的な成功者であることによってスピリチュアル・リーダーとして認識されている――つまり、社会的成功と宗教的正当性が結びつけられている、とありました。「成功は信仰のおかげだ」というロジックは、たしかに自己啓発的です。

山中 「成功者には神様がついている」という考えは今に始まったものではなく、例えばキリスト教にも「繁栄の神学」「成功の神学」と呼ばれる流れがあって、アメリカでは早くからそれが展開されてきた。

 ただ、日本のメディアはムスリムを敬虔な信徒としてのみ扱う傾向があるけれども、敬虔であると同時に現実世界での成功を目指す人も当然いる。そして、それに対して宗教側が果たすプラクティカルな役割があることを示したのが、安田さんの論文です。

――「社会的に成功したのは○○のおかげだ」の「○○」に、信仰ではなく自己研鑽を代入すれば自己啓発になりますよね。

山中 ただし、自己啓発はどこまでいっても技術しかない。宗教は技術の背景に哲学や世界観がある。「生きるための技術」として見ると似ている要素があるけれども、宗教は「人生や人間をどうとらえるか」があった上で技術を語る。機能は似ていても、目的は違うわけです。

――この論集の中に一本、いわゆるパワースポットや宗教上の聖地とは関係ない、アニメやゲームのほうの「聖地巡礼」だけを扱った論考がありますよね(宗教情報リサーチセンター研究員の今井信治氏による「アニメ『聖地巡礼』の生成と展開」)。あれは一体……?

山中 「聖地」という言葉を極めて一般化したのは、アニメのファンたちといってもいいと思います。宗教学者は、かつてはアニメファンがいくら「○○は聖地だ」と言っても、「それは比喩だから」で済ませていた。しかし、彼らが自分の好きな場所、自分たちにとってのかけがえのない場所としてリピートして訪れ、今井さんが指摘するように、場合によっては旅人であることを超えて現地でボランティアとなったり、社会活動にコミットしたりしている。そういうありようを見ていくと、信徒が聖地で深い満足感を得るのと同様に、オタクが鷺宮神社(アニメ『らき☆すた』の舞台となった埼玉県久喜市の神社)に行って深い満足感を得ることも機能的な意味においては宗教的な行為であるといえます。閉鎖的なグループでやり取りをして「自分が撮ってきた写真は、この作品のここだ」と交流することは、宗教的共同体の中で巡礼者たちが語らうことと同じであるととらえられる。ですから、アニメの聖地巡礼もスピリチュアル・マーケットを考える材料としては重要だと思ったわけです。

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