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『青天を衝け』では描かれない徳川慶喜の女性関係──義祖母に嫉妬し、側室と同居させられた正妻・美賀君の悲運

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

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草彅剛演じる徳川慶喜 | 『青天を衝け』公式Twitterより

 『青天を衝け』では、主人公・渋沢栄一のみならず、もうひとりの主人公と位置づけられる徳川慶喜の異性関係も非常に“クリーン”に描かれていることが特色だといえます。それは『青天~』が「慶喜がいかに聡明で、好人物であるか」を描こうとしているからで、18~19歳の頃にはすでに10人近い側室を持ち、女性なしに夜を過ごせないとまで言われていたような慶喜の一面は、バッサリとカットされてしまっています。

 イギリスの外交官アーネスト・サトウいわく、慶喜は「日本人の中で最も貴族的な容姿をした人である。秀麗な顔立ちで額が高く、鼻筋が通っている。眼光鋭く、声は朗々としており、動作にも威儀が感じられた」そうです。

 外見的な美しさに加え、彼の生まれ育った環境が典型的な一夫多妻制の家庭だったことも併せて考えれば(慶喜の父・徳川斉昭には、記録に残っているだけで9人もの側室がいた)、慶喜の周囲にも女性の存在が途切れることがなかったのは、むしろ慶喜にとって “自然”だったのでしょう。

 そんな慶喜と結婚させられることになったのが、京都の公家の姫である一条美賀子です。

 慶喜の婚約者は当初、一条家の照姫(一条輝子)という女性でしたが、結婚直前に照姫が天然痘に感染、回復後も顔に痘痕(あばた)が残ったことを理由に婚約は解消されてしまいました。

 すると一条家との距離が代々近い公家・今出川家(菊亭家)出身の美賀子が一条家の養女にされ、義妹となった照姫の代わりに慶喜に嫁ぐことになったのです。彼女のことは『青天~』のドラマでの呼び方に合わせ、今回は「美賀君」と呼ぶことにしましょう。

 若き日の美賀君が、色好みの貴公子・慶喜との結婚をどのように考えていたかはわかりません。ただ、一条家でも嫁ぎ先でも肩身は非常に狭かったと思いますよ。天然痘に感染したことで慶喜との結婚を逃してしまった照姫のために作られた婚礼道具を携え、自分が江戸に嫁ぐことになってしまったのですから。

 しかも、当初から美賀君の結婚生活は不幸でした。彼女が慶喜と祝言を挙げ、一橋家の「桜御殿」(正妻用の居住区画の名称)で暮らすようになってから、彼女は精神を病む一方だったのです。

 『青天~』の第6回には、慶喜と彼より7歳年上の“義祖母”にあたる徳信院(美村里江さん)の仲の良さに嫉妬した美賀君(川栄李奈さん)が乱心、短剣を振り回し、気を失って倒れるシーンがありました。

 ドラマでの美賀君は、「気が強すぎるお騒がせ者の女性」として描かれた“だけ”なのですが、史実では、そんな他愛ないものではなく、本当の自殺未遂騒動にまで発展した“事件”でした。彼女が首吊りを試みたことが、当時の資料に断片的に見られるのですね。「慶喜の気を引こうとした狂言自殺」と言われたりもしますが、本当に死を覚悟していたものの失敗して生き残った、というあたりが真実のようです。事件後も長い間、床に彼女が臥せっていたという記録もあります。

 皮肉なことに慶喜は、元・婚約者である一条家の照姫とは心温まるような交流を持っていたようです。一条家と慶喜のやりとりを見ていると、少なくとも慶喜にとって、照姫は過去に婚約破棄をした相手というだけには収まらない存在であり、なんらかの交流が両者の間にあり続けたように思われるのです。

 それは、生涯独身だった照姫が亡くなった際のエピソードからもうかがえます。明治13年(1880年)7月30日に照姫が亡くなる直前、一条家から慶喜に彼女の危篤を告げる連絡が入りました。静岡に蟄居中だった慶喜は照姫の葬儀には出られませんでしたが、彼女のために「2円50銭」(現在のお金で10万円超えに相当)の高額の香典を届けさせたことがわかっています。

 一方、美賀君は名実ともに慶喜の正妻でしたが、その夫婦仲は親密であったとはとても言えないものでした。『青天~』での出番が現在はほとんどないあたりにも象徴されているように、夫・慶喜と交流が絶えている時期が何年単位で続いていたのです。

 美賀君との最期の別れについても、照姫に見せた“やさしさ”とはうってかわり、慶喜は冷淡な反応しか見せていません。

 明治24年(1891年)5月、美賀君は『青天~』のフランス編にも登場した医師・高松凌雲の執刀によって、ガンの手術を受けることになりました。しかしその後も体調が回復せず、明治27年(1894年)5月、彼女は東京に向かい、そこで入院生活に入りました。結核性の病気に冒されていたそうです。

 美賀君の体調は悪化の一途をたどり、同年7月6日の時点で、容態に「急変の可能性がある(=いつ亡くなってもおかしくない)」という要旨の電報を受けたにもかかわらず、慶喜は見舞いに向かおうとしませんでした。そして9日の午前、「ゴキトク」という知らせが慶喜のもとに届きます。「ゴキトク」とは当時の上流階級の用語では死去の意です。慶喜はその日の夕方に東京行きの汽車に乗りました。

 慶喜が見舞いに訪れなかったのは、ひょっとすると、心の通わない夫婦だったのだから、今さら自分が見舞いに行ったら、病床の妻は夫である自分の応対をせねばならなくなる。それは良くないと慶喜なりに気遣いを見せたつもりだったのかもしれません。あるいは当時、慶喜の身柄はいまだに静岡で蟄居中でしたから、むやみに移動するのを自粛していたという理由もあるでしょうが、あまり真実味は感じられません。

 驚くべきことに、美賀君の亡くなった9日、慶喜は焼津港まで足を伸ばし、趣味の写真の野外撮影を行っていました。つまり、遊んでいたのです。また、美賀君の入棺が終わると、慶喜は葬儀にも出ず、すぐに静岡に戻りました。

 美賀君の死の前年、明治26年(1893年)1月27日に実母の登美宮(吉子女王)が東京で亡くなった時には、慶喜は母の遺体の傍から一晩中離れようとしなかったという逸話が伝わっているので、慶喜の美賀君への冷淡さはそのまま彼らの夫婦関係を表していると考えてよいと思われます。

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