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沖縄慰霊の日、洞窟に穴を空け一般市民を焼き殺したアメリカの将軍

バックナー戦死後からの米軍の無差別攻撃

沖縄慰霊の日、洞窟に穴を空け一般市民を焼き殺したアメリカの将軍の画像3
東京・上野恩賜公園の「グラント将軍植樹碑」。渋沢栄一の碑文が将軍の業績を称える。

 バックナーは牛島司令官宛に6月10日と14日の二度にわたり「降伏勧告」を行うが返事はなかった。

 そして二度目の降伏勧告を行った4日後の18日に戦死する。

 糸満市を中心とする沖縄南部戦跡のガマを案内してくれた地元ガイドによると、戦死した翌日の19日から一般住民の殺戮も厭わない米軍の無差別攻撃が始まったという。

 米軍は地下陣地やガマに立てこもる日本軍や住民に対し「馬乗り攻撃」と呼ばれる荒手の手法を用いる。ガマなどに掘削機で穴を空け、ガソリンを注いで火をつけ、またはガマの入り口などに火炎放射器の噴射を浴びせ、焼け出された住民が出てきたところを狙撃兵が狙い撃ちした。その後、入り口にブルドーザーで土を注ぎ生き埋めにした例も多々あったというから徹底した殺戮だった。

 同ガイドは米軍の「馬乗り攻撃」を中心とした徹底した掃討作戦により、「生き埋めにしたりしたため、ガマそのものの存在が消されてしまった。未だに戦死者数の把握ができず遺骨の発掘が不可能な状態になっている」と嘆いた。

 米軍が司令官であるバックナー中将の戦死に対する報復として、無差別攻撃に切り替えたかどうかは定かでない。沖縄戦の住民を含む日本側戦死者は19日から牛島司令官が自決する23日にかけ集中したようだ。

戦死した息子と屈辱の無条件降伏を強いられた父親

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沖縄県糸満市真栄里のバックナー中将が戦死した場所に設けられた慰霊碑

 勝利を目前にしながら、最前線の視察中に敵軍の砲弾を浴び戦死したバックナー将軍。最後の最後で“勝利の女神”に見放されたツキのない将軍と言えばそれまでだが、父親で南北戦争時、南軍の将軍として戦ったサイモン・B・バックナーも息子同様に“勝利の女神”にとことん見放されていた。

 南北戦争初期の1862年2月、テネシー州で行われた「ドネルソン砦の戦い」で、後に米大統領となり日本にも来日する北軍のユリシーズ・S・グラント将軍に屈辱の「無条件降伏」を強いられる。

 バックナーとグラントは米陸軍士官学校ウエスト・ポイントの同窓で、多量飲酒などの理由でグラントが1854年に一度、軍を除隊せざるを得なくなった時、バックナーがグラントの故郷に帰るための費用を用立てしたことがあった。

 バックナーはそうした経緯があるだけに、降伏の条件についてもグラントは寛大に扱ってくれるものと淡い期待を抱いたが、降伏について話し合う場でグラントは「無条件かつ即時の降伏以外の条件は認められない」と言い放ち、旧友を突き放した。

 グラントのこの戦いにおける勝利は南北戦争初期、南軍に押され気味だった北軍にとって初めての大勝利だったので、それまで無名だったグラント将軍の名前を一気に全米に広めた。

“勝利の女神”と“幸運の女神”の両方を手にしたグラントはその後、北軍総司令官となり南北戦争で勝利し、第18代アメリカ大統領にまで昇り詰める。

 大統領退任後は夫人を伴い世界一周旅行を行い、日本には1879年(明治12年)6~9月に立ち寄っている。上野恩賜公園のほぼ中央に設けられたグラント将軍植樹碑は今も残る。渋沢栄一による碑文から当時の、日本側の歓迎ぶりが伺える。

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