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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』家康の義弟・源三郎の救出と、老獪な武田信玄との正面衝突

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』家康の義弟・源三郎の救出と、老獪な武田信玄との正面衝突の画像1
松平源三郎(長尾謙杜)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』の次回・第16回は「信玄を怒らせるな」というタイトルどおり、家康(松本潤さん)と武田信玄(阿部寛さん)の軋轢が深まり、ついに両者が激突する「三方ヶ原の戦い」に至るまでが描かれていきそうです。ドラマの家康は信玄から子どものような扱いをうけていますが、実際に三方ヶ原では武田軍に惨敗し、家康は人生最大の艱難辛苦を味わったといわれています。

 第16回のあらすじには、「信玄に対抗し、家康は上杉謙信との同盟を探るが、それが武田方に漏れ、信玄を激怒させてしまう。武田との決戦を避けられないと覚悟を決めた家康は、人質として武田に送っている義弟・源三郎を救い出すが、そこには信玄の思惑があり…」と書かれており、次回は家康の義弟=異父弟にあたる松平源三郎(後の康俊)が登場するようなので、この源三郎をめぐり、徳川と武田がどのように関係を悪化させていったのかについてお話したいと思います。

 源三郎は、家康の生母・於大の方が、再婚相手である久松俊勝との間に授かった子の一人です。つまり家康の父違いの弟なのですが、家康からは徳川家の一門衆として扱われ、大事にされ続けました。それは、家康が自分のせいで源三郎をひどい目に遭わせたという負い目を感じていたからかもしれません。

 桶狭間の戦いのおよそ3年後となる永禄6年(1563年)、家康は数え年12歳の源三郎を人質として今川氏真のもとに送り、それ以降、源三郎は駿河国で暮らしていました。しかし、家康が今川家の支配から脱却すると、氏真のもとにいた源三郎は命こそ奪われませんでしたが、その処遇は悪化したと考えられます。家康は永禄11年(1568年)12月、今川家が治めていた駿河国・遠江国の二国に武田信玄と共に攻め込みましたが、このときは源三郎の救出はできませんでした。諸説ありますが、源三郎はすでに今川家家臣の手で、恐らく彼らが有利に生き残るために、武田家に人質として差し出された後だったといいます。

 別の説では、家康の手によって源三郎は武田家に人質として差し出されたとされています。叛心がないことを証明するために信玄から人質を求められたという構図でしたので、武田家から徳川家に人質が送られてくることはありませんでした。ドラマでも強調されているように、当時の武田と徳川の実力差は歴然でした。一説には、信玄は源三郎だけでなく、酒井忠次の娘まで人質として求めたともいい、武田家は何のリスクも負わなくてもよいというあまりにひどい条件からは、当時の家康が信玄に対してまったく頭が上がらなかった状況がうかがえますが、そうした扱いが続くことで家康が信玄への反抗心を密かに抱くようになったとしてもおかしくはありません。実際に、両者の関係はすぐに悪化していきました。

 もともと武田家、今川家、そして相模国・小田原を本拠地とする(後)北条家の三者間で、いわゆる「三国同盟」が締結されており、これによって甲斐・駿河・相模の地には平和が保たれてきました。しかし、今川義元が永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで信長に討ち取られ、今川家が弱体化すると、その領土は、盟友であったはずの武田家と、今川の旧臣・徳川家の手で奪い取られてしまいます。

 戦国時代において、たとえ正式な同盟を結んでいても、ひとたびパワーバランスが崩れてしまえば、このように同盟を反故にされることは日常茶飯事でしたが、そんな弱肉強食の戦国においても、かつての盟友・今川家を「喰いもの」にした信玄を外道だと断じる「義」の武将もいました。北条家の“大御所”氏康です。北条家は一族の女性を今川氏真に嫁がせており、武田と徳川に攻め入られた氏真の亡命を受け入れました。氏康はこのときすでに当主の座は息子の氏政に譲っていましたが、実際には“大御所”として君臨し、家中からリーダーとして慕われ続けており、氏康の意向が絶対でした。嫡男の氏政が、妻である武田信玄の娘(後の黄梅院)と仲睦まじかったにもかかわらず、無理やり離縁させられたほど、氏康は信玄による今川攻めを許さず、その意向に従う形で北条家は反・武田の姿勢を取ることになりました。

 こうして武田家が両家共通の敵となった徳川・北条は手を組み、武田家の天敵である越後の上杉家との和睦、そしてこの三家による「越相同盟」の締結が模索されることになりました。

 家康は元亀元年(1570年)、武田軍を迎え撃つ拠点として遠江の曳馬城(ドラマでは引間城)の改装を急ぐなど、武田家との決戦の準備を進めていました。こうした中、同年11月、家康は武田家に人質として取られた異父弟・源三郎の救出作戦を敢行します。源三郎は甲斐国を脱出、下山路を経由して三河国に入りましたが、運悪く奥三河の山中で大雪にみまわれ、両足の指すべてを凍傷で失ってしまったそうです。(1/2 P2はこちら

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