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RUNG HYANGインタビュー

瑛人やeillを輩出した私塾が話題のルンヒャンが語る、“求められること”と“やりたいこと”

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写真/二瓶彩

 私塾「ルンヒャンゼミ」から瑛人やeillといった才能を次々と輩出していることで脚光を浴び、2021年3月には『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系)で密着されたことで知られるRUNG HYANG(ルンヒャン)。

 プロデューサーとしてさまざまなアーティストを手がけるだけでなく、自らもシンガー・ソングライターとして活動し、 SIRUP、韻シスト、向井太一、claquepotなど数々のアーティストとのコラボレーションでも知られる。この3月には新曲「オトナの時間」を発表し、また向井太一、claquepotとの合同公演〈Billboard PARK〉をビルボードライブ東京とビルボードライブ大阪で開催する彼女に、これまでのキャリアを振り返ってもらった。(取材・文=末﨑裕之)

普通に過ごしてる人たちが一番ドラマティック

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写真/二瓶彩

――3月1日リリースの新曲「オトナの時間」は、「AWAKE」もそうだったように、聴く人に呼びかけるようなメッセージ・ソングのような印象を抱きました。

 「AWAKE」もそうなんですけど、“大人になることがつまらない”って子どもに言わせたくないなって。自分の周りがお母さんになったりお父さんになったり、また会社でどんどん立場が上になったりすると、みんなすごく制限がかかったり不自由になっちゃって身動きできなくなってる感じするんです。でも子どもってそういう姿を見て大人になる想像をしていくじゃないですか? 大人が一番楽しくて、イケてて、わくわく遊んでる姿を子どもに見せられるようにしようと思ったら、大人を楽しくさせなきゃな、と。大人の遊べる遊び場を何か作りたいなっていうのはずっと去年から考えていて、だから歌詞のメッセージも、お母さんだから我慢しなきゃダメとか、社長だから余計なことはできないとか、そういったところを取っ払おうというものなんです。「大人の解放」というのが自分のなかでテーマとしてここ最近あったんですよね。

――今年2月に第一弾が開催された〈OTOGRAPHY〉も「大人が遊ぶ」というのがテーマにあるかと思いますが、このイベントをやろうと思ったのは?

 ここ最近音楽と並行してモデル業のお話をいただくようになりファッション業界の方々と触れ合う機会が増えて、音楽とファッションがリンクするシチュエーションに遭遇することが増えたんです。ファッション業界が音楽業界にアプローチすることで、音楽を好きな人とか音楽の畑にいた人たちが、それまで知らなかったファッションのことを知るようになって化学反応が起きるっていうことを私自身すごく体感してて。〈OTOGRAPHY〉はその逆算というか、逆に音楽を、音楽じゃない畑の人たちとコラボレーションさせたら面白いんじゃないかな、今までにないものができるんじゃないかなと思って。

 あと自分の曲作り自体が、自分のことを書くっていう感覚が元々あまりなくて。誰か対象がいて、そこに向けて書いてることが多いんです。万人にというより、すごく身近な人だったり、“この人がちょっと楽になる曲を作ろう”っていう曲作りだから、人のドラマを書くことが自分にとってはナチュラルな制作で。〈OTOGRAPHY〉はそういう意味で、全然違う畑の、会社で働いてる人とかブランドをやってるデザイナーとかお母さんとかお父さんとか、そういう人1人1人にスポットを当てて曲を作る。で、その作る過程をみんなを巻き込んで見せたら面白いんじゃないかなって思って。音楽がこんなふうに人の生活にすごく近いところでできてるんだってことを伝えたいんです。普通に過ごしてる人たちが一番ドラマティックだったりするし、みんなにドラマがあるから、そこをピックアップしたいんですよね。シンガー・ソングライターだからできることだと思うし。

――なるほど。そのシンガー・ソングライターになるまでのRUNG HYANGさんのバックグラウンドについて知りたいんですが、そもそもはピアノをやってたんですか?

 ピアノは3歳からやってました。

――歌でやっていこうという意識になったのはいつごろなんですか?

 音楽はすごくナチュラルにできたというか、音感が良くて、聞いた音楽をピアノですぐ弾けるっていうのが特技で。幼稚園とか小学校で、ジュークボックスみたいに友達に言われたのをその場で弾いてみんなが歌うみたいなことを延々とやってて、その延長が今だなと思ってるんです。私すごい地味でずっと鼻水垂らしてるような子どもだったんですけど(笑)、音楽をやってるときだけはすごいみんなが喜んだんです。喜ばれるから自分はワクワクするし、やりたいっていう。それで流れに乗っかって身を委ねてたら、って感じですね。志として「歌でやっていこう」みたいなことは実はあんまり思ってなかったというか、ふんわりですけど、音楽やっていけたらいいなっていう感じで。音楽以外むしろ多分社会不適合です。

――それで福岡から東京に上京して?

 もともと朝鮮学校にずっと小学校から行っていて、それがそのまま大学まであるんですよ。高校まで九州の朝鮮学校に行って、大学進学で朝鮮大学校の音楽科に音楽の先生になるために進学して、それで東京に来て。教育実習に行ったりもしたんですけど、音の感覚的なところを教授たちが面白がって、大学院に残るよう言われて2年間大学院に残って。でその時に舞台音楽とか学校の運動会でこういう音楽欲しいんだけどとか、舞踊踊るのにこういう曲が欲しいんだけどって全国からの依頼をお金もらって作って渡すみたいなことを大学院中にずっとバイトでやってて。そういうので名前が広がっていって、大学院卒業と同時に、金剛山歌劇団っていう、在日の朝鮮の伝統楽器と伝統音楽と舞踊とかをやる大きな団体があって、そこに作曲家として入って。それを2年やってましたね。

 でも私は日本語がすごい好きで。そういう伝統音楽とかって全部韓国語だし、どうしても在日社会の中では韓国語じゃないと全然求められなかったんで。そういう韓国語じゃないとダメっていうのが余計に日本語への欲求を高めたんですよ。どっちかというと声楽的な発声とか、民謡が多かったんですけど、ポップスで日本語で普通の恋愛の歌が歌いたいと思って。それでちょうどそういうときに日本の音楽業界の人に、手伝おうか?って言われて、思い切って日本の音楽業界に飛び込んだっていう感じです。ざっくり言うと。

――そういう伝統音楽をやってたところから、JAMNUTS(さかいゆう、mabanua、Shingo Suzuki、渥美幸裕、SWING-O、Hanah Springなど錚々たる面子が集まった音楽集団)の界隈に行くわけですが、もともとR&Bとかもお好きだったんですか?

 R&Bとか大好きで。当時K-⁠POPはそんなに流行ってなかったんですけど、1カ月に1回、クラブエイジアとかで韓国音楽が好きなオタクが集まるイベント「韓晩」ってのがあって、大学のとき、こっそり行って、そこで韓国語で歌ったりしてて。Drunken Tigerとか、そういうラッパーの人たちがゲストで来たり、そういう時代だったんです。そのときにクラブミュージックにも触れて、そのへんからクラブミュージックは好きだな、やりたいなって思ってましたね。

 JAMNUTSに出会ったのは、日本の音楽業界に飛び込んで2年ぐらい手探りでやっているときに、当時の彼が、すごい面白い場所でセッションやってるから行かない?って誘ってくれて行ったのがshibuya PLUGで。そこで、対馬さん(origami PRODUCTIONSの対馬芳昭氏)たちとか、MARUとかHanah Springとか、さかいゆうくんとか、みんな出入りしてるジャムセッションに夜な夜な行くようになって。当時私は所沢に住んでたんで、所沢から深夜に渋谷に行って、早朝朝の始発を待って帰るみたいな暮らし。韻シストのギターのTAKUちゃんも新幹線で大阪から渋谷に通ってたらしいです。それでコーラスサポートで手伝うようになった流れから竹本健一と仲良くなって、どんどんミュージシャン仲間が広がって、ドラソ(DRAMATIC SOUL:竹本健一、MARU a.k.a Fire Lily、Hiro-a-keyと共同で立ち上げたR&Bイベントであり、この名義での楽曲リリースもあった)っていう。

――そのドラソしかり、振り返るとずっと何かしら誰かとコラボレーションをしているような……

 いやそうなんですよ。去年はテーマが「コラボ芸人卒業」で(笑)。「コラボ芸人やめたいです。誰かのふんどし履かないと存在価値ないみたいな感じになりたくない」って、すごい自分の中で追い込まれちゃって。だから1回自分の楽曲だけで勝負ができるようにもうちょっと集中したいっていうところから「AWAKE」ができたんですよね。(1/2 P2はこちら

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