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「マンガの教科書」を書いた元編集者が語る

特攻の拓、東リベ……「少年マガジン」が築いたマンガ編集の秘話

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「週刊少年マガジン」(講談社)の公式サイトより。

「月刊少年マガジン」編集部で『鉄拳チンミ』や『名門!多古西応援団』を、「週刊少年マガジン」編集部で『名門!第三野球部』や『風のシルフィード』を手がけた講談社の編集者・石井徹氏が、マガジン流のマンガづくりのノウハウを余すところなく記した『「少年マガジン」編集部で伝説のマンガ最強の教科書 感情を揺さぶる表現は、こう描け!』(幻冬舎)を刊行した。80年代から90年代にかけてマガジンが確立し、1997年には週マガが「週刊少年ジャンプ」(集英社)を抜いて日本一の部数を誇る雑誌になった背景にある、マンガづくりの方法論が書かれている。では、「編集者が主導して企画を立て、場合によっては原作まで書く」をはじめとするマガジンのしくみ、組織体制はいかにしてできあがったのか――。石井氏に訊いた。

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石井徹著『「少年マガジン」編集部で伝説のマンガ最強の教科書 感情を揺さぶる表現は、こう描け!』(幻冬舎)

 


石井徹(いしい・とおる)

1958年、千葉県生まれ。1982年講談社入社、「月刊少年マガジン」に配属。以降、「週刊少年マガジン」「ヤングマガジン」「MR.マガジン」など一貫して「マガジン」グループに在籍。現在、「まんが学術文庫」編集長。

作家集めに苦労した「持たざる編集部」の戦略

――石井さんは1982年に新卒で講談社に入社して「月刊少年マガジン」編集部に配属されたそうですが、その前年から月マガは五十嵐隆夫さんが編集長でした。そして86年に五十嵐さんが第6代目の「週刊少年マガジン」編集長になったときにともに異動され、95年に石井さんが「MRマガジン」に異動されるまで同じ編集部にいらっしゃいました(週マガは97年に野内雅宏氏に編集長が交代)。つまり、五十嵐さんとともに80~90年代のマガジン編集部を築いたわけですよね。

石井 人格的には合わなかったですが、長らく部下でしたね。配属当時の月マガはどんな状況だったか。僕は入社するまでほぼマンガを読んだことがなくて、マンガ編集部を希望もしていなかった。そういう人間が見たわけだから客観的な意見だと思うんだけど、「マガジン」と名のつく編集部にノウハウなんてものは全然なかったんです。例えば当時、月マガは独立したばかりだったから月マガと週マガの合同企画会議があったんですね。僕が新入りのときは両方に参加したんだけれども、会議の中身といえば「あのマンガ家いいよね。載せたいな」「スカッとしたマンガがほしい」「サッカーマンガやりましょう」……このくらい漠然としていた。「これ、企画なの?」と新人ながらに思ったわけです。

 だけど、月マガは当時20万部で、いつ潰れてもおかしくない廃刊予定の雑誌でした。だから、五十嵐隆夫さんは必死だった。そこで我々は、編集者が企画を主導するやり方を始めたわけです。

 だってね、月マガは僕が入社してから8カ月間、持ち込みにひとりも来ない雑誌だったんですよ。とにかく作家がいない。だから、まだオタクの祭典じゃなかった時代のコミケにも描き手を探しに行った。87年くらいまでは関東の大学の漫研(漫画研究会)が中心になって作品を発表する場でしたから。それから各大学の漫研にもコンタクトを取って、「プロになりたい」というヤツには声をかけた。漫研出身の作家で僕が担当したのが、例えば前川たけし君の『鉄拳チンミ』、所十三君の『名門!多古西応援団』です。のちに『特攻の拓』で有名になりますけど、所十三君は最初に会ったときにはマンガを描いたこともないのに「僕はちばてつやみたいになりたい」と言っていたんですよ。「いや、絵が描ければなれないだろう。なんか描いてこいよ」と言って、そこから始まった。

 ようやく月マガの新人賞に50作品くらい来るようになったのは部数が70万部くらいに伸びてからです。マンガ家同士は横のつながりが密ですから、「月マガ、調子いいぞ」となるとバッと増える。

 ところが、月マガが奇跡の100万部に到達した頃、講談社の役員会で「ジャンプは450万部で上り調子なのに、なんで週刊マガジンは落ちて150万部なんだ、どうなってるんだ」と紛糾して、五十嵐隆夫さんが週マガの編集長を引き受けてきちゃった。横から見ていて当時の週マガはボロボロだったから、僕は「やめたほうがいい」と説得したんだけど、「『やる』って決めてきたんだ」と。それで僕も連れていかれたわけです。

 週マガに移っても、なかなか作家がいない状況は変わりません。86、7年は『北斗の拳』全盛期ですから、少年マンガを描きたい新人は大体ジャンプに行ってしまう。加えて、おしゃれな(少年)サンデー(小学館)に絵がきれいな描き手は取られる。我々マガジンは150、160万部刷っていても、新人賞には50本ぐらいしか来ない。100本を超えるようになったのは90年ぐらい、もう少しで300万部に届くあたりだったと思います。だから、マガジンは絵がヘタな作家でも勝負できる泥くさいマンガで戦うしかなかったんですよ。作家に合わせて企画を考えるしかないわけだから。

――編集部主導で企画・原作を作るというマガジンのやり方は、こう言っては失礼かもしれませんが、「持たざる者」の戦略だったんですね。そんなに作家集めに苦労していたとは……。

石井 週マガでは持ち込みの作家は最初に連絡を受けた人が担当、新人賞の作家はジャンケンで担当を決めましたが、「このマンガ家は自分よりほかの人のほうが向いている」と判断すれば、その人に譲りました。こういうことは他社ではあまりないでしょう。とにかく編集部が総力戦で対応していました。あるマンガ家の担当に誰かがなったとしても、そのマンガは編集部全員、月マガなら6人がかりで知恵を振り絞ってアイデアを出した。本来の企画会議とは別に、時間があるヤツがみんな集まって「こういう出だしはどうか」とかって毎日話し合っていたんです。

 そして正規の会議では、「スカッとするマンガがいい」みたいな抽象的な企画は許されなくなった。「お前、どんな企画考えてるんだ?」と訊かれて「サッカーマンガをやりたい」と言ったら、「どういうヤツが主人公だ?」「対戦相手は?」「1話はどんなだ?」と、とにかく具体的に、容赦なく口頭で詰められる。常日頃からプロットを考えていなければ、ボッコボコにされます。会議の前日になると胃が痛くなりましたよ(笑)。

 これらのしくみは「ジャンプは後発なのに、なぜトップになれたんだ?」ということを考えた結果です。ジャンプは68年創刊で、59年創刊のサンデー、マガジンより10年遅く始まった。だから名のある作家、絵がうまい作家は来なかった。新人で勝負するしかなかったわけです。じゃあ、なぜ人気になれたのか。話を面白くするしかないでしょう。でも、新人がそう簡単に話を作れるわけがない。とすると、編集部に原作を作れるヤツを集めたんじゃないか、と。噂では「ジャンプの編集者は全員原作まで書ける」と言われていた――あとで堀江さん[注]に訊いたら「そんなわけない。ジャンプ編集部は15人だったけど、多くて6、7人」と言っていましたけどね。ともかく、だから僕らも編集者が企画、できれば原作まで作れるようになろう、と。

[注]堀江信彦。『北斗の拳』『シティーハンター』などを担当後、93年にジャンプ編集長に就任し、95年に歴代最高部数の653万部を達成。集英社退社後はコアミックス代表取締役に就任し、マンガ原作者としても活躍。

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